アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

処女懐胎にみるヨーロッパの言語観における三位一体論 アリアドネ・アーカイブスより

処女懐胎にみるヨーロッパの言語観における三位一体論
2014-06-21 22:53:52
テーマ:文学と思想



 先日の西南大学における岡田温司氏による講義は、聖母マリアの中に生じた受胎告知なり処女懐胎と云う超越的経験を、主として西洋の宗教絵画に素材を求めながら、主としてアリストテレスの「形相-質料」もモデルを用いて、「形相」としての神を論じ「質料」としてのマリアについて言及すると云う、割り切った言い方をすれば概略そうしたお話ではなかったかと思う。
 つまり受胎告知なり処女懐胎の教説は、いっけん、マリア信仰と云う形でキリスト教の教義体系に内部に女性尊重の思想を持ちこむかに見えて、本質は「形相」の優位における神の定義と、マリアは単に神の子が宿る場所としての洞窟なり単なる「入れ物」、あるいは「質料」としての素材なり材料を提供したという結論がここからは導かれると岡田氏は言うのである。
 つまりジェンダーの観点へと敷衍して言えば、男性原理としてのキリスト教を補完補強する原理として、受胎告知、処女懐胎、マリア信仰は利用されたということが云える。
 もう一つ言うならば、地域や周辺社会が持っていた地母神であるとか、ギリシア世界に遍在した処女崇拝の要素をも取り込んで、キリスト教の土着化と云う相反する事業を展開したということもできるだろう。
 これが矛盾に満ちた行為であった証拠は、教義をめぐる争いが異端審問や宗教裁判として、あるいは十字軍として他者を殲滅すると云う絶滅の思想と無縁ではなかったからである。キリスト教は自らの内部に含む諸矛盾を――神学的諸概念を「自然」の外に定立する一神教としての独自な世界解釈のあり方の中に背景があるのだが、宗教裁判として、異端審問をめぐる言説も論争、抗争として、そして最後には殲滅の思想を十字軍の思想として発散し、内部外部の諸矛盾間の平衡を最終的に政治の「力学」として調整しなければならないと云う、一般宗教としては相矛盾する側面を当初より持っていた、ということは言えるだろう。
 ここに云うキリスト教の矛盾とは多義にわたるので未だ整理し得ない状況にある。一つ言えるのは他ならぬ一神教と云うものが教義の体系を自然の外部に定立する思想の一種であることである。ここに云う自然とは環境世界としての全体の自然と云う意味でもあるし、個々の事物や物事が本来備えていなければならない当為の意味での自然と云う意味でも考えている。自然の外で思考するとは、不自然であることから帰結される諸々の結果を引き受けなければならないと云う意味である。

 キリスト教の特徴は以上で概略は尽くされたと云う気が感性的にはするのだが、実はキリスト教キリスト教である由縁はこれで尽くすことはできなくて、以下の、三位一体とは何であるのか、三位一体と云う西洋に固有な言語観なり世界観が意味するものはなんであるのか、という点にこそ求められなければならない。
 三位一体とはアリストテレスの「形相-質料」モデルとどう違うのだろうか。中世のトマス・アクィナスにも見るようにアリストテレスの哲学が教義に対して大いなる貢献をしたのは知られているけれども、形相-質料の疑似二元論的モデルのみでは解けない問題もあるように見受けられる。

 さて、三位一体とは、神と神の子キリスト、そして聖霊三者が同一にして、三つの位階を持つ、ということらしい。位階とは上下関係ではなく、異なったペルソナ、異なった役割があると云う風に今の場合では近似値的に理解しておく。
 三位一体の固有さは、キリスト教に固有の受肉の思想が神の子キリストの誕生と予言と運命の成就と云う形で現れる、キリストの存在としての固有さにある。しかもその固有さは単に神がアダムとイブを誕生させたようにではなく、聖霊、つまりロゴスと云うものを介在させて、ロゴスの恩寵の光の中に神の子が生み出されると云う形式にある。ロゴスとは神の御言葉であるから、受肉イエス・キリストの誕生に於いては、言葉と云うものが深い関係を持っていたと云う、特異な言語観が前提されていたことが分かる。

 なぜキリスト教の言語観が特異であるかと云えば、日本人の眼からすれば、普通、われわれは不言実行と云ういい方をするし、心がなくてあの人は言葉だけの人だね!と云ういい方に馴染んでいるからである。わたしたち日本人は言葉に重きを置かないと云うか、言葉に過大な期待をせずに常識と云うものを尊重する。言葉を介さずに黙って実行することに人としてのまごころが現れると云うような素朴な言語観に依拠している。しかし他民族間の抗争と優勝劣敗の歴史の中を生き抜いてきた諸民族にとっては、時に常識などは相対化して観るものの観方を前提にしているのである。常識の「外に!」ということは、世界の外に、言語で編み上げられた意味的世界の外に、つまり自然の外に一神教の神と神学的な教義を編みださなければならなかった彼らの事情がある。

 キリスト教の言語観とは、ある意味でわたしたちの言語観の対極にあるものとして理解することが出来るのである。これは良い悪いの問題ではなく、また真偽に関わる優劣の問題ですらなく、わたしたちはこうした自己の言語観の圏外にある民族がいて、その民族はある面で優秀でありある意味で危険である、しかも彼らはむしろ少数の例外と云うのではなく、イデオロギーとしては多数派を形成し、国際社会の中でわたしたちを囲繞している、と云う世界史的な現状認識がある。――これは話せばわかる風の、日本人の楽天的な言語観なり世界観とは少し異なったレベルの問題が生じているである、ということである。

処女懐胎とは、実に三位一体の神学上の可視的な表現だったのである。カソリックは半ば危惧しつつ容認した。

 キリスト教における受胎告知も処女懐胎も、キリストの誕生と予言の成就に至る、受肉の思想の教義的表現であったことが分かる。三位一体とは、キリスト教に固有の受肉の思想に関わる、象徴的な表現なのである。
 神が世界よあれ!と宣言し、神と人間を繋ぐために媒介者として、あるいは受肉の結晶として神の子キリストが誕生する。誕生するといってもいきなり世界の中に事物的に誕生するのではなくて、御言葉の中に、聖霊として、ロゴスとして、恩寵の光の中に誕生するのである。御言葉が存在を生むと云っているのである。ここにはキリストの存在に先立つ聖霊!という見方すら可能なものと思わせるものがある。つまり言語の優位!存在を存在としてあらしめるものは言語であると云う、日本人の常識からすれば途方もないものの見方が成立しているのである。
 
 地球のこれからの行く末、宇宙船地球号を云うものを考えた場合に、その舵の取り手は残念ながら常識的なものの見方を身に着けた日本人の側にはなく、日本人の言語観とは全く異質で正反対のものの考え方をするものたちの方に主導権は握られている。しかも船長は狂人ではなく、友人であり、ある意味ではかってわれわれの教師でもあった人たちである。彼らは自分たちの言語観なり世界観に深い自信を抱いているので、わたしたちが宇宙船地球号の未来に対して抱いている懸念に対しても聞く耳を持っているのかどうかは甚だ疑問と云わざるを得ない。しかしわたしたちはいまも優秀な隣人として、ともに責任を果たすべき同乗者たちとして友人として敬意を忘れてはいないのである。

 この間の事情は、単に生物的種としての西洋人と云うだけではなくて、西洋的なもののみかたに染まった世界が東洋や世界のあっちにもこっちにも筍のように自然発生し、それは外的な対岸の事象のみではなく、どうかするとわたしたちの内部においても、日本人であることを誇張して表現するものたちの中にこそ皮肉なことに、その不吉なる類似の相貌を――西洋の影!と云う神秘な相貌を認めざるを得ないと云う、敵と味方が相混在した、二元論では割り切れない曖昧でファジーな霧の中のような世界にわれわれは生きているのである。