アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西南学院大学の岡田温司氏を囲むシンポジウムを聴講して・Ⅲ――ハイデガーの方へ向かう冒険の旅 アリアドネ・アーカイブスより

西南学院大学岡田温司氏を囲むシンポジウムを聴講して・Ⅲ――ハイデガーの方へ向かう冒険の旅
2014-06-27 23:19:41
テーマ:宗教と哲学

 

 


1.マルティン・ハイデガー存在と時間』における「事実性」をめぐる議論
 ジョルジョ・アガンベンによればハイデガーの思想の新しさはその思考が「事実性」に根差している点にあると云う。存在論的に言えば事実の解釈学として提示されていると云う。

*印、記録者によるコメントを示す

*ここに云う「事実性とは事物的存在性とは区別される。なぜなら事物的存在性とは――「眺めつつ確定することで接近可能なものとなる」とあるように、「眺める」とは物事を定立する視点を外部に設定するあり方、「確定する」とは意識反省的に捉えかえす認知的な物事の認識の仕方によって捉えられた世界への事物の現れ方であるからだ。かかる認知の仕方がある種の固定化されたパラダイムの産物であるのは明らかなのであって、このパラダイムを破壊したい、パラダイムと云う色眼鏡を外したときに世界と事物はどのようなザッハリッヒな形で現象して来るか、それをハイデガーは事物的存在性と事実性の違いとして言いたいらしい。

ハイデガーが言いたいのは「眺めつつ・・・」とは、近代人の認知構造が主として視覚モデルの卓越を前提とした二元論的認識論的構図に無自覚では今後の哲学的議論はありえないと云う意味であると解する、事象的事実性は「確定する」と云う行為に於いて成り立つのであるから、換言すれば近代主義的主観「われ」を前提を問題にしているのであるから、近代の認知モデルは既にある種のドグマの前提の上に立脚した立場であるともいえる。

*事象的事実性とは視覚機能の優位における主観-客観の近代的認識論的構図であり、これは遥かにギリシャ哲学のテオーリア(観照的態度)を前提にしていると考えれば西洋の全哲学史を覆うものとも考えられるのだが、それはさておきここでは、ハイデガーの言わんとする事実性とは、自己が世界に立ち現れてくる姿、すなわち彼流の実存論的なモデルであると考えられる。

ハイデガーの自己の世界への現れ方は「情態性」として現れると云われる。情態性とは、分かりやすく言えば「気分づけられている」、と云うような意味である。なぜここでは認識ではなく「気分」であるのかは、認識が本来自己反省的な事後的な知性的な意識であるのに対して、認識に先立つものとして確定されない・・・、――例えば「気分」などと云う挑発的な言い方を意地悪な性格としてのハイデガーはしているのだろうと思う。

 このような世界への自己の現れ方、――情態性をハイデガーは――「現存在は存在しているということを、われわれは、おのれの「現」のうちへの被投性と名付ける。」
 被投性と云う表現は、引き渡されていることの事実性を示唆するものと考えるべきである。現存在は情態性において開示されている――「現存在は存在しており、存在しないわけにはいかないということ」と書いている。これはどういうことか。

ハイデガーが彼流の回りくどい言い方を単純化すれば、被投性とは企投性(アンガージュマン)の対立概念であり、サルトルなどによって有名になった企投概念が主体の能動性の卓越にに於いて未来に働きかける自由としての行為であるのに対して、被投性は既に人間はそれ以前に気分的存在としてアンニュイさの中でがんじがらめにされているということであり、それは気分の問題であると同時に、意識の外部性と云うカント主義的な限界概念の別名でもあるようだ。それが「存在しており、存在しないわけにはいかない」と云ういい方でハイデガーが伝えたいことのようである。

ハイデガーの場合は、サルトルのように人は虚無に直面するがゆえに自由であるのではなく、意識や論理を超えた外部の世界がある種の恐怖や脅威の対象として現れると云う意味では、徹頭徹尾、意識にとっての外部性によって拘束された存在なのである。

*もっと分かりやすい言い方をすれば、ハイッデガーの実存とはフランツ・カフカの小説にみられるような、ある種の密告社会に於ける何時如何なる時自分が犯罪容疑者として告発されるかわからない不確定の状況がシステムとして人為的に既に造られており、そこで人は不確定な伝聞と情報と恐怖によってコントロールされると云う第二次大戦を前後に挟んだナチの時代と戦後共産主義下の東欧社会の現実を念頭に置いて読むと分かりやすいのだと思う。

*そしてここに云う恐怖の観念を人とは自己の死に直面した存在であると云う風に人の一生へと普遍化すれば、なるほどハイデガーの実存の捉え方は一種特異な時代経験や個人の状況を超えて、誰にとっても人生そのものが蛸壺型の恐怖社会のモナドとして意識されるような普遍的な状況であるかのようにみえてしまう。

*現存在の世界に現成するあり方を同じ実存主義の二人の思想家が、一方は企投性(サルトル)、他方は被投性(ハイデガー)と表現していることが大変おもしろい。ハイデガー自身も後に、死に直面した先駆的決意性として、非本来性から本来性のドラマとして、新手のいかがわしきナチ時代の神話として、極限状況における死の自覚性に於いての世界への参画を促すなど、若き学徒を聖なる神話へと向かって高揚せしめ戦地に赴かしめたわが国における京都学派の哲学と同様の逆アンガージュマンの問題を別とすれば、確かに後年のサルトルの読みを、ひいてはわが国の戦後の学生運動の数々を誘引し誘惑するような言説的な下地は確かにあった、と云うべきだろう。


2.アウシュヴィッツ以降の時代に於けるジョルジョ・アガンベンハイデガー思想をめぐる応答について
* ハイデガーの奇妙な謎の呪文のような言葉、ーー「現存在は存在しており、存在しないわけにはいかない」が意味するところは、単純に言えば、ありのままの事実性、近代主義の認知構造と云う認識枠を取り払った後に見出される「ありのままの事実性」と云うことになるのだと思う。ありのままの事実性の概念は、道具性や用在と云う独特の用語を駆使して、近代主義の客観的な世界像の破壊を通じて、個々のモナドトしての人間の「生きられた」ものとしての現実を呼び覚ます。この限りではハイデガーのものの考え方に於いて西洋哲学史への偉大なる寄与は別として大きな瑕疵はないように思える。

 アガンベンのこれに対する応答、解釈は以下のようである。
① 閉鎖しつつの開示、原抑圧の構造
 現存在の存在性格にははじめから一種の原抑圧が働いているとアガンベンは言う。隠されてあると云うあり方でもあると云う。
② 現存在と云う存在の相貌
 抑圧されてあると云う原抑圧の問題が、隠されてあると云うあり方の現前の前であり様、見え方、相貌として現象する。この現れ方を後で見るように一義性としての「仮面」の問題としてとらえるところにアガンベンの固有さがあるような気がする。
④ 現存在の存在性格――情態性、をアガンベンは「造りもの」、すなわち仮面としてみようとする。この「仮面」の導き方が如何にもイタリアの思想家らしい。彼はアウグスティヌスを念頭に置いて「魂は造りものである」と云う言説を引き受ける。ラテン的な世界に於いては「人間の魂は神によって<造られている>という意味で造り物」であったと云う。「ラテン語ではfacticius(作り物)とはnativus(自然な、自生的な)に対置されるもので、おのずからできるものではないもの、つまり自然的ではないもの、存在へとおのずから選ばれるものではないものを意味する」(アガンベン『思考の潜勢力』)
現存在とは、根本的にわざとらしく、非本来的で、自らの内に「ズレ」を内包せざるを得ない。この「ズレ」が事実性に対する「回避」もしくは「背理」をハイデガーの場合生まざるをえない。
⑤ フェティッシュの問題――アウグスティヌスは異教の偶像に関連してフェティッシュを「人工の」という意味合いで語っているそうである。
ハイデガーの現存在の思想――自らのあり様であらねばならない存在とは人工のものであり、かつ作りものとしてのまがい物の存在であると云うのである。現存在とは「その存在が自由な主体として引き受けたり引き受けなかったりできるような模像などではない。」(アガンベン・前掲書)

* まとめ
* ハイデガー存在論を事実的な生の解釈学として大雑把にとらえると、以下の三つの段落が認められる。
① 現存在の自己開示が情態性として現れる場面――気分
② 情態性を「頽落」として捉える段階
③ 「頽落」を対自的な反省的行為としてとらえて、本来性と非本来性の先述の考え方へ導く。(本来性の反省的自覚は先駆的決意性へ!)

 そしてこれらの一連のハイデガーの手続きが、神なき時代のフェティッシュの問題、つまり物象化の現象である、とアガンベンは言いたいらしいのである。フェティッシュとは、もし神と云う概念を欠くならば死せる「仮面」として、デスマスクとして、人工の、わざとらしい異教の神々のような偶像へと変貌すると云う、モーゼとアロンの議論をめぐる十戒以来の永遠の課題は未だにくすぶり続けると云うのであろうか。

* ユダヤ教や古代の偉大な教父に於いては、その本質は偶像をいかに考えるかにあり、非合理とも見える旧約の神の存在とは、その消極的意義としてはフェティッシュを、物象化現象からイスラエルの民を防御する機構として要請されたものであったともいう。

* ところがキリスト教に於いては、その当のものを、キリスト教キリスト教であるための固有性なものとして、ユダヤ教偶像崇拝として物神化として禁忌し、幾重にものユダヤの民としての慎重な配慮のもとにモーゼが神学的領域の圏外に追いやった当のものを、キリスト教は反って特異でもあれば独創的な受肉の思想として意義づけることにあったということなのだろうか。

* こうしてユダヤ教キリスト教は物神崇拝と云う事象を隔てて左右に対立したのである。そしてキリスト教社会はその当然の帰結として、まるでキリスト教神学の鬼子のようなハイデガーの思想を生み出し、他方では20世紀におけるユダヤ人問題の最終的解決の思想を生み出たということだろうか。

* マルティン・ハイデガーの思想は、無神論に偽装された現代のキリスト教神学である。


(追記) 思想の国の王様、と三位一体論
* ハイデガーの実存思想は事実性の概念を根幹として、一方に世界の中に世界内存在と しての自己の現れ方として、それを情態性として言い表し、他方では実存としての自己への世界の見え方の問題として事物の用在性の問題を導く。世界は生きられたものとしての意味連関の構図としてとらえられるわけである。かかる世界観が近代主義だけでなく、ギリシア時代以降の世界観に対する一切の転倒と云う野望を秘めていたことは、彼のフライブルグ大学学長時代の言動とも併せてその親和性は興味深い。

* つまりハイデガー哲学史における第三帝国の思想的等価物の「等根源的」な実現を目指したかのようでもある。ここに第三帝国とはナチズムのイデオロギーに限定せずに、広くキリスト教社会を包括した、①律法の履行と予言者の予兆の中に生きた「父なる神の時代」、②神の言葉の受肉化の象徴としてのキリストの言葉を愛の言葉として受け止める「子なるキリストの時代」、そして③最後の審判と云う名前の地獄の劫火を潜り抜けて選ばれたもののみが生ける言葉の成就としての「聖霊の時代」、の三つの時代と。

ハイデガーの念頭にあったのはナチズムや政治的事象としての第三帝国論などの矮小化されたヒトラーの侏儒の北欧神話の思想などを遥かに超えて、偉大にして深淵なるキリスト教の三位一体の伝統を継承し、ある種の黙示録的予感の中に自らの自画像を仄めかしていたことは明らかだろう――幸いにして無教養なナチの下士官どもはハイデガーの文体を読み解くだけの能力がなかったが。

* 戦後、彼がナチズムとの関連を疑われて言論の場に引きだ出されたとき不遜とも傲慢ともいえる頑なに「被告席の沈黙」を保った彼なりの理由は、この問題が特殊ナチズムの問題を超えて深くキリスト教社会に内在した血と十字架の二千年来の課題であることを意識していたからに他ならない。 死の「先駆的決意性」と死への跳躍を説いた「思想の国の王様!」(アーレント)、このいかさま師は、戦後「情態性」と非「了解」性の「頽落」態の小市民的波間と忘却の光芒の中に小舟を紛らわせて老獪とも小心ともいえる猜疑心を働かせて自らの生を無傷のまま全うしてしまうのである。


 雨は降り止まなかった。一言も質疑を発することもなく講師の方々への傍聴できたことのお礼を述べて静かに講義室を立ち去った。まるで西南で過ごした天候不順の数日間の日々はエーコの有名な小説『薔薇の名前』の未熟な見習い修道士メルクのアソドが経験した日々のように暗澹たる思いでわたしを打ちのめした。わたしにはバスカヴィルのウィリアムのような導き手もいないのであった。傘の用意のないわたしは濡れそぼる沛然たる雨を前に立ち尽くし、雨のに消える前にしばし灰色にくすぶった校舎群を暫し見上げた、他方でわたしは幻想と幻視的妄想の世界に炎上し灰塵と化したあの修道院を後にした物語の二人の修道士のように険しく切り立った精神の尾根道を追尾してくる黙示録の騎士たちが吹き鳴らす誘惑の魔笛を振り切るように足跡と気配を丹念に消しつつ始原の森へと退却していった、当学院では有名な、西南に忠実たれ!と云う悲痛な創立者の言葉との間で引き裂かれていた。