アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ゲーテ『親和力』 アリアドネ・アーカイブスより

ゲーテ『親和力』
2014-07-04 10:34:44
テーマ:文学と思想

※本稿はヴァルター・ベンヤミン経験の格闘の中から生まれた。


 ゲーテの『親和力』は困惑させる。二組の貴族の夫妻がいて、それぞれの名前をエードゥアルトとシャルロッテと呼ばれている。彼らにはそれぞれ気になる友人知人が一人ずついる。一人は夫の親友である大尉と呼ばれる人物であり、優秀な人間でありながらところを得ないでいる。社会的人間として世に用いられないということほど寂しいことはないだろう、と夫は思いやる。もう一人はオティーリエといってシャルロットとは従妹で早世した友人の娘ということになっている。こちらは現在夫妻の一人娘ルチアーネとともにある寄宿舎に預けられているが、品行方正であるにもかかわらず校長の受けは必ずしも良くない。それは何時も外交的で日の光のような存在のルチアーネと比較されて不利な籤を引いてなのか、もともとがこうした集団生活には不向きな性格であるのかは、根本的なところでは好意を抱いていないだけでなくある種の懸念さへ感じさせる校長の手紙と、これを反面的に補償するような若い助教の思い入れが際立った二つの手紙を通して、読者が直接読み取るような仕組みになっているので、文面に書かれた以外の事は想像で補うしかない。

 またエドゥーアルトとシャルロッテの過去にも僅かではあるが言及される。かって二人は勝手相思相愛の仲であったが、当時は若く親の言うなりになって気の進まない相手と婚約した。その後、二人に取っては好ましい偶然が重なってお互いの配偶者がそれなりの資産を残して死別したので、ここで彼らは豊裕な資産家になったことでもあるし、誰に指さされることもなく晴れて夫婦になることが出来たのであった。
 こうしてここに誰が見ても祝福された理想の夫婦と思われていたのだが、お互いが気にしているそれぞれにとっての幸福とは言えない二人を自邸の館の一隅に引き取って共同生活を行うと云う形で、今まで釣り合っていたかに見えた夫妻の生活に微妙な変質が兆しはじめる。

 それはシャルロッテが自邸の広大な庭園に加えている造園計画のなかで生じる。これが筋書きらしきもののないこの物語の一本の経糸である。造園計画とは言っても所詮は素人の高貴の女性が趣味ですることだからたかが知れている。それを自然科学と実務に詳細な知識を持つ大尉が次第に夫妻の賞賛を得ながら、次に彼女の計画に加えられた批評をシャルロッテが耳にすることによってそれが反感に転じ、その反感が何事も自制と反省を持ってする彼女の長年に培われた理性的で合理的な性格を通過することで、やがて事業にとって得難い協力者を得ることにもなる。二人は事業関係の共感と協調を通して異なった異性間の友人関係を超えそうになるところまで行くが、世間体と常識の前にお互いの思慕を押し殺してしまう。大尉はさる筋から求められて宮仕えをするために去っていく。この二人の英姿には自然性との格闘を通じて理性的な判断を見失わず、青春の激情の時期を過ぎると自制する事を学んだゲーテその人の分有された姿とも見える。

 一方、これと対照的なのがエドゥーアルトとオティーリエの二人である。幼いころから親を失い居候の生態が身について今は叔母であるシャルロットの身に過ぎた好意にのみ頼るほかはない所在なき娘と、申し分のない出自とシャルロットとの悔恨に満ちた青春の出来事を除けば万事幸運としか言いようのない経歴に飾られた、殆ど望むものなら何でも叶えられそうなエドゥーアルト、周囲も甘やかせば本人も自己に寛大であるというこの人物は、物語りが進むにつれて成長よりは著しい幼児性への退行を認める。
 エドゥーアルトは自らの意思を持たない人物として設定されているので、彼が初めて見出したオーティリエへの愛への道行にしても、何故か偶然がものを言う。一つは、彼女の誕生の祝いとして齎された離れ屋の定礎式において、儀式として打ち砕くべく投げ出されたグラスが偶然によって立会者の一人にキャッチされて無傷のまま返還されると云う偶然であり、二番目は、やがて二人の愛が万事休したときあえて危険な戦場を軍人として志願することによって、自らの生死を偶然の天秤に載荷し、不可能でもあれば非道徳的の匂いすら感じられる彼らなりの愛を運命を貫いてでも貫徹させようとする利己的な意思として現れる。つまり彼は古代の英雄のように、一方では自らの意志を決断するためには主体的な選択よりも運命の相の元に任せようとする人物のようにも見える。しかし運命に従うとは、あらゆる社会や個人が強いる時代性としての規範や価値観に従いながら、尽くすべきを尽くして最後はすべてを運命に委ねると云う謙虚さが前提にされているべきと思われるのだが、啓蒙の時代を生きるエドゥーアルトには運命に形を借りた卑劣さが認められる。育ちの良い彼が利己的な性格であると強調するのはこの場合正確ではなくて、かれはヴェルテルのような愛の至高性と云う啓蒙主義時代の理念、その観念性に半ば囚われているのである。ちょうど戦後のある時期の日本人がアメリカ流の恋愛結婚観を絶対視したように。
 であるから、この物語を通して読む限りでは、エドゥーアルトにも成長と云うものはあるものであり、それは打算的に生きてきた自らの生き方の最終的な総括として、あらゆる世俗を超えた超越的な愛の理念として現象する。彼の愛が一部真実の愛でもありえた理由は、自らの生命を賭してでも叶えられなければならなかった当為として彼自身に理解されるようになるのでも明らかである。少なくとも彼は彼なりに学んだのである。彼は真実の愛を求めて戦場の生死の境界線を彷徨い、最後は恋人の殉教者のような死に方に殉じて苦しい死を死ぬ、エドゥーアルトの物語はそれはそれとして首尾一貫していたとは言うことが出来るのである。彼の生涯を愛の生涯と云う観点から述べるならば、経済的な観点を度外視した思春期の愛として生きた、次に経済と社会的地位の愛として生きた、そして啓蒙期に相応しい理性的に管理された理想の夫婦像として生きる、そして最終的には真実の愛を育てると云う経験を欠いていたがゆえに、自然が絶対的に持つ愛の絶対性を前にしたとき、彼の築き上げた自信は空中の楼閣のように崩れ去るのである。

 オーティリエの場合は、境遇からくる絶対的受動と云う立場の中で彼女自身の意志は介在することなく外側の条件が自らを生き方を他動的に決定していく。その彼女が結果的には、散々恩義をかけて貰った対象でありながら尊敬すべく夫妻の関係に決定的な楔を打ち込むことになろうとは!
 彼女は、聖母のように自らの身体を汚すことなくシャルロッテの肉体を借りて罪の子を産み落とす。それは四人の関係がそれぞれに微妙な時期を迎えたころ、夫婦関係をそれとなく元に戻そうとした夫妻の偶然の愛の行為――つまりお互いの姿も定かではない靄のような寝室で営まれた愛の行為が、一方はオーティリエを他方は大尉を心中に慕うと云う肉体と魂が相反した行為であったがために、生まれてきた子供は姿かたちが大尉似で、瞳と全体の雰囲気はオーティリエを思わせる子であると云う不思議で誰にとっても奇妙な出来事が生じたのである。つまり二人の人物が同時に相異なる肉体と魂に関わったと云う意味で、奇妙なことに、一夜が明けて夫妻が寝室に差し込む白けた朝日の揺らぎの中に見出したのは、夫婦でありながらまるで姦通の現場を取り押さえられたとでもいうような奇妙な感覚だったのである。この奇妙な感覚をこの小説では二重姦通と云ういい方をしている。

 ここで特徴的なのは啓蒙期の理想の女性のように描かれるシャルロットと云う女性である。彼女の明晰で明敏な意識は自分たちの今までそれなりに安定していた生活に第三者が加わることによる危惧を悟ってはいた。しかし彼女は何度も押し返して熟考を相手と自分自身に求め、自分たちを取り巻く環境の時と所の力を借り乍ら再考し再考させて時間を稼ぐと云う、それはそれで慎重な配慮と立ち振る舞いに終始するのだが、相手への思いやりのゆえに自らの意思を最終的には貫徹できない。大尉への愛と云っても、それは男女の愛と云うよりは事業や職業を通しての同志愛と云う側面が強い。二人とも大変に似ているのである。だから二人は自らの感情を自らの意思で制御できるかどうかわからなくなると、大尉が偶然が齎した宮廷への仕官と云う形で破綻を避ける冷静さをを失ってはいない。
 シャルロッテは、自らの受胎を医師から告知されたのちも、また生まれた子供がその類い稀な容貌と固有な痕跡ゆえに罪の子であることを告知されたのちも、理性と時間的判断をかければ万事は落ち着くべきところに落ち着くと思っている。夫をめぐる運命に翻弄されながらも、決して感情を顕わにすることなく一歩一歩と後退しながらではあるが、打つべき手を打って決して短気になったり絶望したりしない彼女の性格は啓蒙期の理想的な人間像から生み出されたものであろう。しかしその強靭な彼女の意志も打ち砕くような事件が最後に起きる。それはオティーりアの不注意から起きた、罪の子の水死と云う事態である。
 罪の子と云われるけれども、それは罪の結果として生まれた子であると云う意味で彼自身は無罪なのであるである。生まれたばかりの無垢な子供に罪があろうはずはない。しかし子供は親たちの因果ゆえに罪を背負って死ななければならない、これは原罪としか名づけようのない事態である。これが架刑台上のキリストをめぐる物語の原型的繰り返しであうことは明らかであろう。
 罪の子の死を境に、シャルロッテに於いては自分の生涯上の規範、価値観が根底から崩壊する。愛には、時代の倫理観や道徳観を超えたものがあり、その自然性をおろそかにしてきた自らの人為的な生き方が根底から問われたのである。なぜもっと早く二人を一緒にしてやらなかったのだろうかと彼女は悔いるがすべては後の祭りである。
 一方罪の子の死は、エドゥーアルトとオティーリエに於いては全く違った反応を導き出す。オーティリエにとっては当然の報いのように自明視されるのは罪びとの意識であり贖罪の行為への予感である。実際に彼女は人の目に見えないところで長時間をかけた絶食と云う自然死の道を選択する。他方エドゥーアルトにとっては、罪の子の消滅と云う事態はあろうことか自分たちの愛に対する障害が消え、道筋を見つけることが出来る好機であるかのように空想するのである。ここでも自らの運命に対して決して自ら主体的に決断することなく、外部の条件のみの変化を占いに賭け、良き可能性として利用する彼の抜けめない性格が滲み出ている。
 こうして二人は全く正反対の立場に立つことになる。一人は世俗的価値観が追い付けなるほど早く遠くそして高く、神に愛された殉教者の立場として。もう一人は神なき時代が当然予想させる、徹頭徹尾自分自身の都合で生きるほかはない世俗的世界の代表として。

 ゲーテの『親和力』の恐ろしさは、誰一人として悪人や異常性格の人物が登場しないことである。また描かれた近世ドイツの宮廷と田舎貴族の優美とも優雅ともいえるロココ風の生活には凡そ翳りと云うものがなく、かといって白日の陽光や際立った色彩感覚に彩られることもなく、全てが中間色の上品なパステル画に描かれたヴァトーの田園風景画のようでもある。
 この物語の中で唯一中心にいて、凡そ恣意的な観念性や傾向性と云うものと縁がなく、理性的判断によって自制できる性格のシャルロッテこそ、唯一この物語の破局を防ぐことが出来る立場にあったとはいえるが、それではどうすべきだったかと云う段になると、彼女の慎重で決して自分自身の判断に絶対的な重みを持たせるわけではなく、周囲の状況を見ながら自身の見解を臆することなくのべ、かつ時間や自分以外の利用できる条件の利用についても広範な見通しを捨てない彼女のやり方にとても問題があるとは思えない。むしろ彼女が優秀で有能でそして思いやりに富む非利己的な性格であったからこそ反って自然的なるものの反撃は極端にまで激越を極め猛威を奮ったとは言えないだろうか。
 その結果彼女もまた罪無くして、夫と罪の子供と、自分自身のもう一人の分身であるオティ-リエと、多分長年月に渡る友人としても愛の対象としても正常な関係を続けられるはずであった大尉を、つまりは全てを失ったのである。

 この物語は、通常はわたしのようにシャルロッテに傾斜して読むよりもオティーリエの物語として読むほうが普通かもしれない。いっけん無味乾燥な上流社会の貴婦人よりも、孤児のヒロインとして、イギリスのロマン主義の女流作家たちが取り上げた群像に確かに似ている、その彼女を中心として読んだ方がロマンとしてはメリハリがあるのである。そして誰よりもオティーリエはヴェルテル青年にこそ似ている。彼女の最後の死に至る頑なさは異様である。彼女は保護されてあると云う境遇ゆえに自らの意志を主張すると云う育て方をされてこなかった。人や外部の条件に進んで自らの形を合わせて生きると云う過剰適応性の問題は彼女にもあったのだろうと思う。誰にとっても良い人で、等距離の外交を繰り広げた彼女の罪は、神なき時代のような社会や共同体に於いてそれを超えた卓越した価値規範がないところでは、自然の性情に於いて生きるとは人間の関係性が生む非合理に太刀打ちできないということなのだろうか、この問題は難しすぎて現在のわたしには何とも言えない。

 この小説の中に「隣の子供たち」と云う童話がさりげなく挿入されている。昔々隣り合わせの二人の男女の子供たちがいました。二人は一葉の『たけくらべ』のように子供らしい無邪気さで夫婦となることをままごとのように思い描いていました、ところが歳降るにつけてもの心つくころから二人は異常に反発しあうようになり、それは憎悪を超えてお互いが関係する局面だけに生じる不思議な化学反応のように、互いの存在の否定までに進行したかのようでした。それを見て不安を感じた両家の親は強制的に引き離すほかはないと観念しました。
 こうしてお互いに交渉のないまま数年間が平和裏に過ぎたのですが、とある偶然から再開した二人は自らの中かに予想もつかないほどの内面の変化、心の高揚を感じたのです。娘にはその頃既に許婚者がおりました。男は理性的な性格の青年に成長していたので、一期のお祝いにと二人を友人知人たちを連れ添って舟遊びに招待しました。それは急流激流を降る舟下りのような内容のものでしたが、どういうものか船長が途中で体調を崩してしまい、いつの間にか青年が舵を取るような偶然に何故かなっておりました。ゆるやかに流れた川もやがて岩と岩との間をすり抜ける舵捌きを要求せざるを得ない局面に立たされて、青年が舵取りに異常な集中力をとられたその時に、青年の前に風のよう現れた娘は一期の思い出にと花輪を青年の方に投げてよこすなり、身を翻して激流に飛び込みました。青年も飛び込んで結果二人は意識と無意識を彷徨いながら遠い下流の方まで流されました。二人は運よく親切な農家の夫婦に助けられて、とりあえず着るものがなかったので気が付いたときは夫婦の花嫁衣装に着替えさせられていました。こうした姿で二人は人々に発見されたのです。

 狂おしいほどの愛の思い!くるくると青年の方に投げつけられた華麗な花輪の軌跡!そして乾坤一擲の思いでなされた娘の水の洗礼!これもまたもう一つのキリストの物語なのである。
 ここでは言葉を超えた何かが二人の運命と宿命から解き放つ。他方、エドゥーアルトの生死をかけた決意も命を懸けたと云う意味では違わないのだが、物語りの最後にあるように、時間の経過が彼に謙ることを教え、謙虚になって自分自身の事情を説明した手紙は偶然の結果、手続きの順序が逆転した形で読まれ、こと志と異なった結果を生んでしまう。言葉は非力であり、相手に届かない!それと云うのももはや彼の愛する対象は、人生の様々の紆余曲折の果てに沈黙することを、言葉の否定を学び取っていたからなのだが。
 他方、「隣の子供たち」の娘の方は、有声言語を超えて、所作言語と云う形で乾坤一擲ともいえる賭けに出て、運命や宿命と云う概念を破壊するのである。