アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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武田泰淳『冨士』アリアドネ・アーカイブスより

武田泰淳『冨士』
2014-07-09 15:30:47
テーマ:文学と思想



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戦時下の雄大な富士山麓あるとされる精神病院を舞台に、若き研修医と院長、看護婦長や看護長と云う病院側の人間と、彼らの管理下にある様々に多様な患者たちの悩みや葛藤を通じて、黙示録的な日本の没落風景の中に武田泰淳の課題、掲示行学的な問題の諸相を描いたものである。
 実在のモデルがあるわけではなく、人物類型が将棋の駒のように理念的に構成されているので、武田はドストエフスキーのような観念小説を書こうとしたと考えてよいだろう。設定は、謎めいた院長先生もさりながら、ページをめくるたびごとに入れ代わり立ち代わり現れる刺激的な人物群の登場、次はどうなるのかと期待させる。

 もう一つこの小説には描かれた背景を特徴ず蹴るものとして、登場人物をめぐる枠組みの外側には、警察行動に従事する憲兵と彼の上部組織にあたる高級特務将校、明らかにテクノクラートを思わせる高級軍事官僚が出てきて陰に陽に様々な目に見えない圧力と規制をかけているかにみえ、やがては精神病棟をめぐる世界の全体が彼らの掌中にあることが明らかになる。小説の劇的な大団円の最終場面に至ると正常と異常の関係は複雑に交錯し、あるいは逆転し、大日本帝国の崩壊と云う外側のもっと巨大な物語が世界没落の予兆と予感の中で、一挙に精神病棟と云う観念の世界の床が抜けて生死も分からぬ奈落の混乱のなかで混乱し幕となる。つまり幾人かの患者は死者の世界に転落し、正常な人間も狂気の世界の住人となり。それらを丸ごと含めて最後の審判が下る。院長は南方の戦地への派遣と云う形で日常から姿を消す。主人公の大島は一部始終を見届けてまるでロトとその家族のように院長夫人と娘を伴って混乱おなかを下山したのだと思う――なぜなら後年院長夫人の娘を大島が妻に向かえたことが明らかになるのであるから。いずれにせよ、生殺与奪の権利を掌握し、彼らに審判を下すのが件の高級軍事官僚であると云うのであるからイロニーの世界である。

 この小説を読む場合は精神病棟と云うものには格別の固有の読み方をしなくても良いようである。患者の一人一人は、健常者よりもくっきりと明瞭な絵画的な人物造形がなされており、生きた人物であると云うよりも、武田が構想する観念的世界を構成する典型化が働いているのである。であるから、こういう小説の場合はキャラクターが如何にリアルに魅力的に描かれているか、読者の興味を保ちうるかに、この小説の成功の可否が係わっている。

 まず最初に登場するのは、件の憲兵である。精神病院を管理下に置き、事象として起きていることを過不足なく勤勉に逐次本部機構へ報告しているらしいのだが、彼は彼なりに意識することなくされることなくある種の哲学的な問いの前に立たされている、とは言える。すなわち、戦時下の極限的な状況の中に於いても、不労住民である精神病患者たちは生きるに値するか、と云う問いである。同一の状況に直面してナチスが取ったのは断種あるいはその進化形としての物理的消滅と云う――案外にすっきりした解決方法を提案したことは知られている。提案するだけでは済まずに大々的に展開し推進し天文学的数字に於いて実行したことも知られている。そうした同盟国の「形而上学的な問い」の状況を見ながら彼はこのような問いに立たされてたわけである。彼の小役人的な狡さや小心さは、下品な敵役のように作者によって位置づけられるのだが、読み終わってみれば彼の優柔不断さと云えども反面的には戦時下における消極的な抵抗の役割を幾分果たしていたと云う皮肉な結果にもなっていたわけである。彼が最後の場面で上級将校より面罵されるのは何よりも彼が「能率」と云う観念を欠き遂行義務に於いて熱心でなかったからにほかならない。ナチズムに固有の省力化、死の大量生産とベルトコンベアーのフォード方式、その哲学的理念としての超合理主義=最終的解決の思想こそ時代の変動と変革を抜け目なく生き抜いて、資本主義の不死の精神として、戦後社会の中に大々的に復活するのだが、この小説では必ずしも視野はそこまでは及んでいないようである。

 かかる戦時下に於いて警察機構によって一方的に管理される側の対象として、院長と研修医の大島がいる、と云う陣容配置である。看護長や看護婦長、病院事務長と云う管理職もいるけれども、戦時警察機構が関心を持つのは甘野院長と研修医に代表される精神科医たちに限られる。なぜなら医者たちは今日に於いても変わらない専門性の特権化されたヒエラルキーの象徴として、自らの「小世界」を牛耳っているからである。彼らは彼らなりに、患者や施設の職員たちに対しては生殺与奪の権利を行使しうると云う意味で「暴君」であることすらあり得る。暴君性を回避しようとすれば甘野院長のように特異な「人格者」となるか医業を天職に類したものと観念することなどの複雑な操作が必要とされるが、かかる医者個人の「人格」がものを言うところにかかる医療組織の反面的な危うさがあるともいえる。(後に見るようにこの点を登場人物の一人一条実見に突かれるのである)

 さて、当の甘野院長の事であるが、この小説は最も興味深い複雑な人物として描かれている。彼の経歴の特異さは、二度の放火事件と不可解な長男の幼年期における死に象徴される。つまり精神病患者と寝食一体の生活様式を履行することは、同時に患者たちの殺意に囲繞されてあると云う覚悟が必要であるかのようにも見える。つまり幼い彼の息子は狂気の代償として、犠牲の生贄として奉げられた感じがかなり高い確度で予感される。
 この不可解な履歴と合わせて彼のモットーも理解する必要がある。彼のモットーとは、何故か精神科医とは憎まれても感謝されることのない職業と云うのである。なぜなら万が一患者が完治した場合に於いても、ひとは自分の履歴を隠そうとするものであり、通りで偶然にすれ違っても知らぬふりをしがちなものであると云う。つまり早く言えば精神病院の院長と云うのは患者全体から憎まれる存在であると云うのである。彼の性格が特異であるのは、かかる職業上の被虐的な倫理観を天職として甘受しているらしいと云う点である。研修医の大島もまた、甘野院長の複雑で不可解な履歴に違和感を感じつつも、最終的にはかかる職業倫理に敬意を払拭することが出来ない。頼るべき戦時下の状況にあって彼は唯一の内面の鏡、良心の拠り所なのである。不合理ゆえに我信ずと云うか、できうればかかる先達の足跡を跡付けたいものだ、と思っている。

 この小説には大きな事件が二つ起きる。一つは電信鳩の帰還をめぐる出来事である。患者に間宮と云う成年男子がいて、およそ伝書鳩の飼育以外には関心を持てない人間として設定されている。その彼がある日、帰還が遅れている伝書鳩の所在を求めて煙突の突端に遥かに登り、その心持に以心伝心に感染したか、これもまた星の観察以外の関心を持てないと云う幾何学潔癖症の岡本少年とともに、不安定な足場しかない煙突の最上部にまで上り詰めると云う事件が起きるのである。
 さて精神を破壊されたこの二人の患者を誰が迎えに行くか、如何にして安全に地上まで誘導するかをめぐって様々の論議が伯仲する。これは責任上院長自らが迎えに行くことになるのだが、体力を消耗して任務を完遂できない。他方、患者たちに強い影響力を持つと自他ともに認められている自信過剰の患者一条実見が任務をかってでるがこれも失敗する。この件は奇跡的に帰還した伝書鳩が帰来したことで一種神がかり的な解決を見るのだが、ここは、それまで一見ばらばらであった精神病院と云う共同体が唯一の求心力を見せたイメージ、その象徴として鳩のイメージが用いられていることを知れば用は足る。

 二番目の事件もまた間宮の伝書鳩を通して生じる。
 間宮の伝書鳩は、件の警察機構を通して秘密通信用として召し上げられたのだが、鳩の不在が彼に情緒不安定をもたらしていたようだ。精神を止んでいる彼としてはそれを院長の仕業であると勘違いし、ある日短刀を持った彼は不在宅の院長の母子を襲う。この時は下女の中里きんが果敢にも自らの命を犠牲にした抵抗によって甘野院長の母子の命は九死に一生を得るのだが、間宮もまた患者の一人(大木戸考次)の妻に、おりから情緒不安定になっていた患者の妻に偶然的に殺害される。つまりこの場合も、どうして彼が何故に・・・と考えるよりも、鳩のイメージの「不在」が世界没落の隠喩として利用されていることを抑えておけば十分である。

 先ほども少し述べたが、貴族の出自であると自称する一条実見と云う頭脳明晰な男がいる。かれは研修医大島のかっての同級生であり、したがって現院長とも師弟の関係にあったということになる。彼が如何にして健常人の枠組みから外れることになったかの詳細は書かれていないが、もしかしたら徴兵隠避の手段であったのかもしれない。いずれにしても自己韜晦の技術としての演技力には高いものが感じられ、逆に自らが齎した精神的に不具合を持ったものと云う、境界域に生きる者の両世界の世界経験が、それを一個の実存として捉えかえすことによって反って、健常者に於いては見えにくいもの、あるいは健常者・非健常者の精神風景を等距離のものとして理解しうると云う、特異でもあれば卓越した能力を与えているかのようである。つまり健常者、異常者の微に入り細にいって理解しうる特異な理解力がゆえに研修医大島をして敵わないと思わせてしまうのである。

 その他の人物についても、一部重複するところもあるが、次回は個々の人物群像についても解説を加えたい。