アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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江戸東京建物園のジブリ展――宮崎駿と高畑勲の世界と昏さ アリアドネ・アーカイブスより

江戸東京建物園のジブリ展――宮崎駿高畑勲の世界と昏さ
2014-07-18 11:46:01
テーマ:絵本と児童文学


http://www.tatemonoen.jp/img/special/201406/main_img.jpg


 宮崎駿の『風の谷のナウシカ』にアニメージュ版と劇場版があるのは知られている。後者では、児童文学の定型として、愛によって世界は救われるのだが、前者は人類は緩慢な自己消滅の過程にあり、生態系としての地球の未来は人類を除外した形での歴史が再度始まるのかもしれない、そんなことは何も言わないけれども、そうした暗示と予感の中で終わる。明るいとは言えないし、暗いともいえない、日没の直前に大地が鈍い金色色に染まるように、あるいは不吉な夜明け思わせるような薄明の中で終わりを迎える。旧約聖書の神が幾度か天地創造に失敗したように、失敗のつけは神と人類が支払うということだろうか。

 アニメーションドラマの終わりはどうあるべきかで、かって宮崎と高畑勲の間で論争があったと云う。高畑勲には奇妙な悪の感覚があって、宮崎が予備的に警戒したものとも取れるし、宮崎自身に内在する暗さ、ということに対する自己予防措置であったのかもしれない。
 高畑の暗さ、残酷さは『火垂るの墓』に極まっている。高畑の悪に対する感受性は、残酷さと云うよりも、残忍さとでも云うべきほどの徹底性をみせている。戦時中に親を失った幼い兄妹の幸少なき生涯を描いたお涙ちょうだい風の野坂昭如の原作を、高畑はリアルな映像化を通して違った作品にしてしまう。それは原作を改作した結果であると云うより、原作で忠実であるがままに映像化することによって、文学が語ったこととは違った意味を映像の背後に浮き立たせてしまう、と云う意味でもある。もしこの作品が実写であったならばこうはならなかったであろう。同じリアル映像と言っても実写作品では作り手の側の、映画監督から脚本家、そして生身の人間であることを最終的には否定できない俳優たちによって、幾分かは血の通った世界であることの否定を徹底できない。しかしアニメーションでは、時に、描かれた画質がメルヘンティックで童話風であっても、それゆえにこそと云うべきか、生身の人間の体臭を介在させない度合いの距離感に於いて、映像が当初意図したものとは違ったメッセージを与えることがあるのだ。
 野坂昭如の原作はお涙ちょうだいものであるけれども、高畑の劇場アニメーション版はそうではない。ここで言外に語られていることは、戦前の日本社会に於ける中産階級と云う存在の奇妙さである。ブルジョワジーでも庶民でもない、近代化の日本の中で発生した経済的範疇として中ぐらいと云うだけではでは済まない、背景と伝統を欠いた、と言ってヨーロッパの中産階級的読書階級の卓越とも異なった、気位の高さだけが唯一の劣等コンプレックスの補償でもありうる軍事将校階級の価値観が幼い兄妹の運命を定めていくと云う残酷な道筋にある。おそらくはこの家族の両親の目からすれば、規範的な意味での良い子であり、自慢の長男であり、自らを助けるのは自らの力であると云う軍事社会に固有の自助努力の価値観の
リゴリスティックな信奉者でなければ兄妹の運命は、あるいは変わっていたかもしれない。親たちから植えつけられた奇妙な価値観を放下して、人情に頼ったならば少なくとも妹だけは救うことが出来たのではないのか。このアニメの暗さは、戦時下の社会が悲惨であったということではなく、悲惨ではあるにしても、自らのプライドのために命を犠牲にすると云う、奇妙に歪んだ価値観が無批判的に描かれたことにある。この映画の暗さは、内容の暗さでもなければ高畑の暗さでもなく、内容の全体を捉えきっていない高畑の視野の狭さにある。
 『平成ぽんぽこ狸』が傑作であるのは、高畑が依然としてかかる世界観的概念的枠組みの中に居場所を見出さざるを得ないと云う展望の困難さを描いた点にあると云える。市街化が進む緑豊かな東京近郊の団地に於いて、人間による文明と文化の進行と肥大化は必然的な過程であるとするならば それに向き合う野生の狸どものグループにも二極化が行われる。一方は土着の理想を掲げて敢然と文明と文化に対抗する道である。彼らはテロリストになるほかはないのであろうか。もう一つは都会の中に生じつつある第三の自然ともいうべき下水路や地下溝に生息を求める道である。つまり人間たちの目が及ばない領域で密かに異なった生態系を築こうと云う、かっての隠れキリシタンをも思わせる奇妙に捻くれた道である。
 狸たちの選択が一面の具体性を持っていたことは1970年前後の学生たちの動向を思い出してみればよく分かる。学生運動の先端的な部分はテロや内ゲバ、そして北朝鮮パレスチナ解放運動に連帯を求める過程で自滅した。残存し体力を温存した中核部分は学生運動で学んだ党派性と徹底性を戦後の企業社会の中で思う存分発揮して「悔いのない人生」を歩んだ。残された大衆は「大衆」と云う便利な言語の中に埋没することで変わることのない最良の巧緻さを発揮した。最後にかかる「大衆」の仲間にも入れてもらえないグループの存在もあったはずで、奇天烈な生き方を選択したものもいたし沈黙の世界に入って行ったものたちも確かにいた、ここまでは古典的な類型論の世界である。高畑勲のユニークさは、文化文明が駄目なら自然があるさ!と云わんばかりにディスカバーをもち上げた環境保護団体とそれに寄生する諸グループとは異なって、文化文明や都会の中にも自然があること、第三の自然とでもいうべき聖域が息づいていることを見出し、住めば都とまで達観したわけでもないだろうが、じり貧の消極的抵抗に生きたものがいたことを描き出した点にある。高畑はこのグループを理想化したわけでも何らかの意義を見出したわけでもない。『風の谷のナウシカ』の宮崎同様に、自然消滅の過程を歩むグループの歩みを哀歓を籠めて、あるいは冷徹に描き出した点にあるといえよう。

 アニメージュ版『風の谷のナウシカ』の骨子は、子供を愛することのできないまま早世する母親と力弱き父親と云う家族設定である。父娘家庭となった父親は健気に娘を育てる。力弱き父親が考える教育理念は何時かは一人でこの世に残される娘の運命であり、一人で生きる自活の技術習得である。それでナウシカは何処かどこか男のような側面を隠し持って生きている。清純な無垢さを装って入るけれども、破壊的なものを隠し持っている。それが秘密兵器巨神兵との愛憎が入り混じった奇妙な聖家族的な関係である。キリスト教の神が子なるイエスを犠牲にしたように、子である巨神兵は自らのアイデンティティーの模索の果てに、母たるナウシカへの愛のゆえに受難の道を選択する。ナウシカがその選択に対して自分と母親との関係の再現を見たようにも思い愛憎こもごもの複雑な思いに捉われて一時行動不能の状況に陥る。
 わが子を愛することのできない母親、あるいは母親に愛されない娘と云うテーマは『となりのトトロ』においても繰り返される。ここでは具体的言及を避けるために母親は重病で人里離れた病院で治療生活を送っているということになっている。これを文字通り信じる必要はなくて、『となりのトトロ』が描き出しているのは力弱き父親の偽善である。彼が本ばかり読む大学教授に設定されているのは、彼が教育の能力を欠いた不能者であると云う意味である。彼が大事な時に指導力を発揮しないから五月とメイはメランコリックで夢見がちな性格に育ったのである。その傾向はメイに於いて著しい。トトロの出現は狂気の世界の出現であり、この大事なときに言及されるのは隣近所の人々の善意であり、当の父親については思い出されることすらない。猫バスの出現は狂気の世界が死後の世界に変わりつつあることの象徴である。病院にいる母が呼んでいると云う。しかし実際にはこの母親はとおの昔に死んでいるのである。それを日和見主義者の父親は悲劇を直視したくないと云う自分の側の事情を優先させて、娘たちから現状に直面させると云う機会を奪っているのである。

 ここからこの不憫な姉妹をめぐるドラマは『崖の下のポニョ』に奇妙に転調する。大津波が襲うとは『風の谷のナウシカ』と同様、世界崩壊の隠喩である。共通するのは終末論的な世界観に立脚した場合、果たして人類は`救済するに値するかと云う形而上学的な問いである。この哲学的な問答が保育園を舞台に宗助の若い母親とグランマンマーレと呼ばれる海の女神との間で展開する。宗助の若い母親が所帯じみて描かれることを禁忌しているのは五月の変装した姿であるからである。『隣のトトロ』に描かれた奇妙なあの田舎家の中で演じられた五月主宰の学芸会であると考えれば抵抗がない。メイをこの世に留めるべき五月が打った乾坤一擲の芝居である。
 アニメはこの大事な場面で急に、無言のマイムとして描かれる。外から二人の所作だけを見ていれば他愛のない主婦同士の囲炉端会議のようにも見える、それほどにも二人の表情はにこやかでもあるように見える。しかし実際は笑みの背後に隠して、グランマンマーレとの間にメイを冥府の世界の住人とするか否かの熾烈な綱引き競争が行われたと考えてよい。グランマンマーレとは五月とメイの母親と考えてよいだろう。彼女はメイをこの世に残すのが良いのか悪いのかについて根本的な懐疑に囚われており、結論は一方の側に傾きかかっている。その使いが猫バスである。五月は明晰で感受性豊かな娘として猫バスの出現の意味を理解し、『崖の下のポニョ』の世界に乗り込んで健気にもグランマンマーレと、つまり病死した母親の霊魂と取引するのである。母に愛されたメイと、片や愛されない娘・五月のテーマはナウシカと母親の関係のトラウマの再現と考えることもできるだろう。あるいは容易には愛されない性格であるがゆえにこそ、死の甘美さに対して抵抗力を発揮できたともいえるのである。
 声は聞こえないけれども、二人の問答の末は、どうやら五月はグランマンマーレの説得に成功したかに見える。それで『崖の下のポニョ』の結末は世界滅亡の大津波が去って船長の父親も無事に帰って来る、目出度しめでたしの結末ということになる。
 『隣のトトロ』においては結論はそう明確ではないけれども、メイは無事保護され病院で母親との面会が果たされる。父親が不能力者であれば、これからは自分が彼になり代わってメイに接しなければならないだろう。この辺の少女の決意の健気さはナウシカそっくりである。ナウシカが自らに付き従うモーゼの使徒たちに真相を伏せておくように五月もまたメイに真相を告げたようにはみえない、しかし遠からず、適当な時期に告げることになるであることは予感ではなくて、五月の性格からしてあり得ることのように思えるのである。

 『千と千尋の神隠し』のテーマは、特別かわゆくもなく卓越したところもない娘はどうしたらよいのか、というテーマである。特性のない娘が不機嫌のは、親たちが自分たちの事情だけによって振興開発の住宅地に引越しを決めたことと、そのことによって娘があらゆる交友関係や人間的諸関係の背景から切り離された存在になったことだろう。つまり寄る辺ない自己実存の存在になったということである。
 人間があらゆる伝統的な人間関係や社会的背景から切り離されたとき出現するのは大衆社会と云う奇妙な存在である。それが顔なしと云うキャラクターが意味するものである。最初は遠慮がちに阿るように、最後は暴君と化す。そうした社会で娘は生きていかなければならないのである。
 娘が学んだことは、顔なしのような存在を毛嫌いすることなく、正当に付き合うこと、大衆と云う役割を持たない存在に手仕事を与えてアイデンティティーを確認させることであるだろう。その過程は水の洗礼と云う形を通して、遠くに住むお婆さんの家に遊びに行く電車の旅として表現されている。
 大衆社会の状況は、押しなべてあらゆる存在が言葉を奪われてある、無名性であるということの状況にある。顔なしが言語だけでなくあらゆる表情を奪われていたように、ハクは最後に自分自身の名前を思い出す。その時、自然は第二の産声を挙げるように文化文明の呪縛から解放される。
 この映画は、メッセージに於いて必ずしも明確ではないが、自らの内なる自然の開放こそ、あらゆる存在に救いをもたらすと告げている。自然が回復される過程は説得的に描かれているわけではないが、やや特異であると感じるのは言語の発生譚、つまり言葉とともに世界が再生されると云うキリスト教と同一のテーマを宮崎が無意識のうちに繰り返していることである。この点は『風の谷のナウシカ』が言語の不在で幕切れしたのとも異なっている。他方、『崖の下のポニョ』では肝心な場面では言語は非力であり、最終的に力を治めるのは言語を超えたマイムの力である。
 言語と所作の関係、この交錯した先後関係についても今後模索が続くのであろう。宮崎の言語観が両極で揺れるということは、言葉の物象化について明確なイメージを持たないということもあるのだろう。


(付記)
 肝心のジブリ展のことを書き洩らした。ジブリの絵やコンテがスタジオジブリの各アニメごとに数枚づつ展示されている。絵は小さいもので水彩かパステルの感じである。模型は二点ほど、一つは天井にまで届く千と千尋の神隠しに出てくる銭湯の巨大模型、も一つはアルプスのハイジに出てくるお祖父さんの家を含む牧場の風景である。
 撮影禁止を厳しく言い渡されて、やや物々しい雰囲気である。出品された内容と警備態勢がアンバランスなような気もする。わたしはたかがアニメだと思っているから自大主義的な構えは嫌いである。騒ぎすぎるような気がする。