アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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続・武田泰淳『冨士』――その多彩な登場人物たち、甘野院長の場合 アリアドネ・アーカイブスより

続・武田泰淳『冨士』――その多彩な登場人物たち、甘野院長の場合
2014-07-19 10:10:26
テーマ:文学と思想



 敗戦が色濃い戦時下の富士山麓にある精神病院を舞台にしたこの小説の登場人物たちについて語ろうとすれば、まず甘木院長について語られなければならないだろう。
 彼については、小説の中でどうであるかと云うよりも、過去の彼の履歴の方が興味を引く。その彼の履歴ということについてだが、まず、精神科医とはだれからも感謝されない職業であると云う彼自身の認識を押さえておくことが必要だろう。精神病の患者とは、病が癒えないと云う衰弱の過程で恨みの対象を補償行為として精神科医自身に向けがちのものだと云う。また完治するあるいは日常生活を過ごすうえで支障なしと判断された半完治の状態で退院した患者と街中などで偶然に遭遇する場合があっても知らないふりをし勝ちであると云う。精神科医が患者との間に憑依や転移と云う濃厚な関係が成立することは知られているが、彼の数少ない過去として紹介されるのは二度の放火事件と幼い長男の不審な死である。そして実際にこの小説の後半部では主人公の大島研修医が予感したように甘野家は患者雨宮の襲撃を受けて、甘野の妻と娘こそ無事であったがお手伝入に来ていた村の娘の抵抗と自己犠牲的な死をもたらしてしまう。
 研修医大島の兼ねてからの予感は、過去二度の放火が三度四度と続く甘野家の避けることのできない近未来であることだろう。それは病院の近くに住まいを持つと云う選択ゆえに避けることが出来ない。それ以上に恐ろしいのは幼い長男の過去における不審な死についても類似の疑惑に包まれており、そのことについての院長のなげやりともいえる無防備さである。むしろ家族について起こる、あるいは起きた、起きるであろう出来事について、むしろそれを自分の宿命であるかのように達観しているようにも見える。この小説がキリスト教的な枠組みの影響下に書かれていることは明らかで、甘野院長とは子供たちを犠牲の羊として奉げ続けなければならない旧約の神の暗喩である。あるいはアブラハムとイサクのドラマの中に自分と共通する実存の問題を理解した旧約の神への共感の物語でもある。
 旧約の神とは、通常怒りや妬みの神として異教徒には理解されることが多いが実際はそうではない。アブラハムとイサクの物語が意味するものは、アブラハムの忍従と堅信の物語ではなく、旧約の神の本質、自らが最愛のものを犠牲に奉げることでなにものかを購うと云う、神の悲劇的実存の自己認識の物語なのである。神はユダヤの民に流離いと受難の過酷な運命を与えたのではなく、自らの宿命の反映された形がイスラエルなのである。 
 武田のキリスト教理解は古-キリスト教、あるいはユダヤ的理解の一途であるのかもしれない。と云うのもユダヤ教に於ける神の唯一性とは神の絶対性や唯一性の卓越と云うよりも、神の存在論的な可疑性を前提していると云う。新約聖書に於いてもイエスは息絶えようとするとき、「神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか?」と云う絶句を発しさせ、手が込んだことにはこれは旧約のある文章を踏まえていると云う。つまりキリスト教徒の理解の範囲内では、この文言は、心理主義的に理解されるべきではなく、旧約の伝統を踏まえた神認識の本質をイエスがキリストとして認識していることを示していると云う。
 神の可疑性と云うユダヤ教あるいはユダヤ的なるものの驚くべき独創性は、アブラハムが神に試されることを通して神自身の存在が問われていたように、神を疑いうることを許容しうる教義と云う宗教としてのユニークさを示しているものとみてよい。ここからユダヤ教あるいはユダヤ的なるものの特質として言えるのは次の二点である。
① 神の可疑性の認識こそが、神は絶対であるとしながら、それでも人間(アブラハム)の側に反証可能性の余地を残していること、この部分的な神と人間との間に取り交わされた「平等性」こそが、ユダヤ-キリスト教において常に卓越して語られる「契約」という言葉の意味が理解可能なものとなるのである。
② ユダヤ的なるものにおいて神の唯一性や絶対性が語られる場合は、キリスト教とは異なって、かかる神の可疑性を前提において理解する必要がある。神の唯一性とは、神の端的な絶対性を語るものではなく、観念・物象ををも含めたこの世の森羅万象の何ものかを絶対的なものとして固定して考えたがる人間の観念論的な傾向をこそ物神化として最も恐れる事象であることをユダヤの民は理解していたということになろうと思う。
 神の存在とは、ユダヤ的なものの考え方によれば物神化や物象化事象への消極的な抵抗、最終的な歯止めとして機能と効能を発揮しうる、と云う意味なのである。神を怖れるのではなく、この世にある事象の絶対化こそを怖れよ!と云う風に理解できるのである。シナイ山モーセが異教徒的なるものとして告発したものは、ユダヤキリスト教的な世界の外なる者に対して向けられていると云うよりも、宗教がその内部に本質的に持つ物神化や物象化と云う事態への警告!と云う意味で理解されるべきである。聖書の記述を信ずれば彼はこれまで付き従った信徒の大半を救済に価しないものとして切り捨てるのである。それを描いたものとして、例えば難解なシェーンベルクのオペラ『モーセとアロン』などもある。

 小説『冨士』は、戦後のある段階に於いてーー1970年前後の時代背景をも加味して考えねばならないと思うが、日本人に身に着いてしまった西洋的なものの考え方、特にキリスト教的なものの考え方を一歩突き抜けようとする意欲作であった可能性がある。
 日本のキリスト教研究家や欧米紹介型の文化人の場合は、西洋と東洋の断絶、日本人の無神論的な傾向を確信しかつ詠嘆的に嘆く論説が多い。一つには東西の文化的断絶を説かなければ進歩的文化人としての彼らの商売が成り立たないからである。むしろ近代化の百年にも満たない間にかくも広範な影響を、例えば藤村や独歩から有島武雄、太宰治川端康成をへて戦後のキリスト教作家の諸群像に至る広範囲で深い影響を残したことこそ、日本人の特異な特質として理解する必要がありはすまいか。
 キリスト教は日本に根付かないのではなく、根付きすぎたのである。教義としてのキリスト教キリスト教徒は根付かなかったかもしれないが、ものの考え方は偏在化したのである。大東亜戦争を戦ったのは日本精神ではなく、キリスト教の思想的枠踏みに浸食され偽装された右翼の看板建築に他ならなかった。プロレタリアの左翼の作家までが転向の時期にはペテロと十二使徒の物語を皮肉にも再現して身体性言語として語ることになる。西田の哲学や京都学派に集う人々の者の考え方は何処までがそうでどこまでが独自のものであるのか見極め難いものがあると云う。
 武田の小説『冨士』の舞台が軍部の秘密組織機構の監視下にある富士山麓の精神病院に設置されていることは偶然でない。武田は武田百合子の『富士日記』の記載にもあるように、戦後が明らかな復興の軌道を明快に走り始めた時期に、むしろ彼が戦間期と戦時と終戦直後に感じた、日本民族が必敗の予感の中に見失ったものを求めて、誇り高き日本の民族の実存を一方的に裁定し断罪し、凡そ他に対して揺らぐと云う事を知らぬかに見える文明の在りかに対して、武田は目に見えぬゲリラ戦を挑もうとしたとも思えるのである。

 蛇足ながら甘野院長のこの後の足取りを紹介しておくと、精神病院は解散と閉鎖を命じられ、彼自身は玉砕と云う事態が常態化することになる南方の激戦地に軍医として派遣される。こうした彼であるから南方に於いても彼なりの意義を見いだし役割を全うしたと思う。
 他法、富士山麓の精神病院をめぐるドラマの中に世界の縮図を見たと信じた研修医・大島は戦後生き延びて、あの甘野宅の襲撃から奇跡的に生き残った母と娘に再開し、成長した娘との間に婚約を取り交わすと云う縁起を成就することになる。大島が富士山麓の日々の中で仄かな善意を抱き続けた甘野夫人は記載は少ないのだが、なぜかわたしには『富士日記』などの記述を通してみても百合子夫人その人であるように思える。明晰で理知的で、ときに男勝りに勇敢でもあれば勇敢でもありえて、夫の前の障害に立ちふさがった献身型の良妻賢母の人、泰淳氏の人間としての不条理に対しては理性に目隠しをし、一転して「非合理ゆえに我信ず!」として仕えたデボラのような旧約の人の面影を!


(付記)小説『冨士』の評価と、その他の登場人物たち
 小説『冨士』はその雄大な構想にも関わらず、小説としてはに詰め切れてないところ、作法としては素人じみたところが感じられる。それは登場人物の造形に於いて、多彩である反面、甘野院長を除いては観念的、抽象的、類型的である等の観念小説としての安易さについて考えてしまう。大木戸と云う老人が登場するが、彼はあらゆる人間としての欲望を喪失した代わりに、食欲と云う一生理現象に特化した人物である。彼は物化した人物の典型であると云える。他方、彼には美人の妻があるが、こちらは生々しい生物としての情念を貞淑さの影に宿している。つまりは二人は交渉が途切れているにもかかわらず一体で、主人公格の人物甘野院長の品行方正な建前型の人格と補償関係にあるわけである。
 大木戸老人はイワン・デニソヴィッチを思わせ、収容所列島が生み出した典型的な人物である。彼に刻印されているのは、人間にあるとされる尊厳の否定である。彼の描写を通じて小説『冨士』の有事に於いて精神病患者生存は価するものがあるかと云う形而上学的な問いは鳴り響いていると言ってよい。その彼と主人公たちとの間に劇的なドラマを期待したいところだが、彼は中途であっけなく死んでしまう。他方、大木戸夫人は、最後の最後で魔女としての本性を明らかにするが、本質的、説得あるものとして描かれているわけではない。
 このほかにも語り手研修医・大島の影のような存在として、一条と云う青年が登場するが、精神科医以上に精神科医的なマニアックな存在という意味以上のものを感じることはできない。
 また大木戸夫人に対抗する庭京子と云うファナティックな傾向の処女が登場するがキリスト教の寓意であることは明らかであろう。大島に急所を刺激されそれで神学的な教義に目覚めると云う神がかり的な巫女のような設定になっている。生理的な不全が宗教性と通底しオカルト的な神性を目覚めさせる要因の一つとして理解されている。性欲が変形していかがわしい宗教への変容を遂げると云う事を意味しているのだろうか。
 また、星の観察と伝書鳩の飼育に特化した意義を見出す単線型の岡野少年と間宮と云う人物が登場する。鳩を愛する温和な男があの甘野家襲撃の実行犯として変身する過程については既に語った。また哲学的な問答を得意とする星を夢見る青年の方はそのロマンティシズムとは裏腹に、無の思想の信奉者でもある。彼の無の思想こそ小説『冨士』の根源にあるものとの予感を持つが、この場面についても必ずしも説得的に描かれているわけではない。

 総じてこの小説は、1970年を挟む戦後思想の総決算ともなった最後の政治的時期の終焉と無関係ではないだろう。三島由紀夫の死は明らかにその右翼的言説にも係らず彼らへのオマージュの身体性言語風の表現であったろうし、高橋和己や村上一郎は時代に殉じるような古風な死に方をしてしまう。精神病院の患者たちが人間よりより人間的に描かれているのは武田が精神病理学について見識が浅かったということもあるだろうけれども、本質的にはあの時代を生きた群像の模倣であったからである。
 そうすると憲兵某と彼の背後にいる高級将校と軍事秘密機構の存在は大学正常化を進める国家権力である事は見やすい道理であるだろう。華族の末裔であることを自称する一条は全共闘世代のエリート層を象徴しているだろうし、庭京子のファナティックな面は新左翼の狂信性を、岡野少年の感情を排した幾何学的な思想への好みは自閉症的傾向として容易く理解できるし、政治的な時期の破壊的な傾向を象徴していると考えてよい。鳩を愛する心優しき青年の秘められた狂気については、あの時代のフォークソングやべ平連的な傾向と考えても良い。いずれにしてもかかる多彩な登場人物たちに仮託された小説『冨士』の諸傾向は、ソドムとゴモラを後にしたロトを除いて一つの画期となった時期を生き延びることはできなかったのである。
 それにしても後を振り返って潮の柱になったと伝えられるロトの妻サラ、過去を哀惜したものとはだれだったのだろうか。