アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『失われた時を求めて』と『ユリシーズ』 アリアドネ・アーカイブスより

失われた時を求めて』と『ユリシーズ
2014-07-23 18:55:35
テーマ:文学と思想


 例えば『失われた時を求めて』とは次のような物語である。
 幼いころフランスの片田舎コンブレを訪れた際に決まって夜の一定の時間に招かれて来ていた謎の人物シャルル・スワンの父親の世代は、同化ユダヤ人が株の仲買人などとして経済的並びに社会的な成功をおさめ、上流社会に仲間入りする社会である。フランス革命以降の自由と平等の概念の普遍化が、一瞬であるにせよ、民族の違いを超えて、個人の裁量によって社会的地歩を築きうるかのような幻想を与えた時代ということが出来る。彼らの中にはキリスト教に改宗した者もいたし、そもそも宗教と云う事を意識するよりも、芸術の普遍性であるとか自由と平等の理念を天賦の理念として理解する普遍人の方をより多く生み出したと言える。失われた時を求めての登場人物の中ではスワンは特段自分自身をユダヤ人とは意識していないかのように描かれているし、普遍人の理念を過激に主張するのは語り手の友人・ブロックなどの場合であろう。
 同化ユダヤ人シャルル・スワンは美的趣味に生きる世紀末の趣味人として、あるいは田舎の知人に対して配慮を怠らない上品な田舎の趣味人として対照的に描かれている。かかるスワンの美的趣味と最高級の社交界なりサロンに出入りする側面が「ゲルマンとの方」であり、おずおずとしたナイーブな田舎紳士として描かれた側面が「スワンの家の方」である。

 息子のシャルル・スワンは、成金の父親にはできなかった、美の世界の探求者となり、それを手蔓に上流社会の寵児となります。美的鑑賞者としての態度は、ちょうどお茶の世界の通人のように、正規の趣味性からは少し外れたもの、茶器のいびつさや仄かな瑕疵のようなものに日常ならざる美を認め、女性関係に於いても、当時、ココットと呼ばれていた高級娼婦のオデットを妻に迎えます。

 スワン家の上流指向はこの後も世代を超えて継続されたかのようで、娘のジルベルトによって、とうとう本物の貴族サン・ルーとの婚約を果たし、侯爵夫人となるのです。
しかしサン・ルーは同性愛者で、秘密を抱いたまま戦場で死んでしまいます。

 他方、老衰の果ての美的耽溺者のようにして亡くなったシャルル・スワンのことについては意図的な健忘症におちいったかのオデットは、スワンの経済力だけを利用して豊富な財源を元に、先述のように娘を貴族社会の仲間入れに成功し、自らもゲルマント公爵の愛人となり、パリの社交界の頂点に位置するサロンの主催者として君臨するようになります。

 晩年のある日、語り手が目にするのは、第一次大戦後のそうした価値が転倒した世相ですが、実際は、そんなに苦労してまで手に入れたパリの階級制は無意味なものとなりつつあったのです。

 ジルベルトと戦死したサン・ルーとの間に残された若きサン・ルー嬢はかってのシャンゼリゼで遊んだ頃のジルベルトに瓜二つなのですが、いまや社会的にも経済的にも成功を収めた一家の無比、無瑕疵の存在なのですが、しかし彼女が選んだのは、個人の自由と云う事でした。財産も後ろ盾も欠いた体だけが資本であるような貧しい青年を生涯の伴侶として選びたい、と云うのでした。

 サン・ルー嬢の中に語り手は統合された時の輝きを見ます。それは幼き頃揺籃のまどろみの中に夢見た二つの道の、円環を成す統合された時の姿でもありました。
 ここで初めてプルーストは、原稿用紙一万枚の果てに、「青春」と云う言葉を使います。肉体は死に瀕しながらも言葉の中に時が、時の中に言葉が甦ると云う稀有の経験に遭遇するのです。つまり不易なものとは、この世の外にあるような神秘や形而上的なものではなく、一人のうら若き女性の身体性の中に具現されていたという発見に関する物語なのです。
 失われた時を求めてはここで終わっています、――茫漠たる時の輝きの中に!


 ジョイスの『ユリシーズ』を語るためには、『ダブリン市民』や特にその中の傑作「死者たち」、そして『若き日の芸術家の肖像』を含めてジョイス論として語られなければならないでしょう。
 『ダブリン市民』の世界は、仏教で云えば末法の世界である。神から見放され救済を断念した人々の物語である。「死者たち」のゲイブリエル・コンロイは救済を断念した人々の優しき同伴者のようにみえる。変革や革命を待望する人々に背を向けて彼はその日の平穏な暮らしの中に埋没しているように見える。しかし彼と同様、波乱と云うものを知らないかに見えた妻の過去を知るに及んで、自分たちが平穏さの中に見捨ててきたものの存在をはっきりと知る。彼はアイルランド文芸復興運動と民族主義に関わっている女友達との対話を通して自分たちの血の中に生き残っている言語の古き響きに耳を傾けたいと願う。
 『ダブリン市民』なり「死者たち」が美しいのは、ジョイスの民族への思いが、誰しもが経験する通過儀礼としての成長と、成熟と喪失の物語として、二重に経験される、という点だと思います。

 劣等アイルランド民族がイギリス並びに大陸の文化とどのように対抗するのか。それは芸術と普遍言語の経験を通じて、かってカソリックラテン語の理念が汎ヨーロッパ性として機能したように、世界文学の理念を通じて世界に君臨する、それが途方もないジョイスの理想なのである。
 かっては汎ヨーロッパ性を担った者たちとはユダヤの人々であったでしょう。『ユリシーズ』では主人公レオポルド・ブルームはしがない広告営業の注文取りということになっているけれども、彼がユダヤ人として描かれていることには普遍人の理想と云う意味があります。またもう一人の主人公・スティーブン・ディーダラスが文学者であることの意味も、言語や学問を通して民族や国家の枠踏みを超えると云う、普遍文化人、人文主義者たちの伝統を踏まえていることは明らかでしょう。
 
 ジェイムズ・ジョイスがなしえたことは言語の卓越、ということである。小説は現実を描くことでも反映させることでもない。言語的宇宙として、それ自体に於いて自律せる宇宙的な存在なのである、というジョイスの側の確信であります。
 ジョイスは『ユリシーズ』において、芸術批評のあり方をも問うているようにみえます。芸術に読者は、鑑賞者は必要であるのか。むろん必要であります。しかしそのことと芸術がそれ自体に於いて固有な宇宙論的な秩序を持つということは別の事なのです。