アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デブラ・ウィンガーの『愛と青春の旅立ち』 アリアドネ・アーカイブスより

デブラ・ウィンガーの『愛と青春の旅立ち』
2014-07-27 09:55:29
テーマ:映画と演劇



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 愛と青春の旅立ちと云う映画、もちろん、わたしも最初はアメリカの余りにもアメリカらしい、サクセスストーリーとして見ました。しかし、その時感じた違和感は、主演のリチャード・ギアデブラ・ウィンガーが合っていないという印象でした。なにか存在感の違った二人の人間がいると云う感じですね。あるいはこの時感じた細やかな危惧の感じは、ヒロインを演じた女優のパーソナリティと映画の内容がそぐわないと云う感じ、裏切られてあるという感じ、様々に言い分けられる感じですが、それは単なる気まぐれで利己的な思い付きの類いでしかありませんでしたが。

 それから数年後、アンソニー・ホプキンス主演の『永久の愛に生きて』と云う映画を見ました。例によってホプキンズが年甲斐もなく感傷的な老人を演じていて感動的でした。そしてこの時の相手方の悲劇のヒロインを演じたのが、たっぷりと肉付きの良い、それでいて不思議に美しく年輪を重ねたおばさんになったデブラでした。感傷的でいて、お涙ちょうだいものの映画を、ホプキンス同様、いささかも照れることなく、正調で演じているのが印象的でした。このような映画を正面から演じることが出来る、その背後には人として、女優としての時間がなければなりません。ホプキンスの揺らぐことのない俳優としての自信、それを背景として置いて見るとき分かるのです。
 この映画の中で演じた、不治の病に侵されるアメリカ生まれの女流詩人と云う役割を見ながら、『愛と青春の旅立ち』を見た時の違和感が少しわかるような気がしました。
 つまりこの映画で彼女が演じた戸惑いとは、異なった価値観と人生観が支配した社会で生きた一人の人間の履歴のようなものだったのです。
 
 『愛と青春の旅立ち』は、先ほども書いたようにサクセスストーリーとも根性ものとも取れるでしょう。特に、士官候補生を扱く黒人の教官を演じたルイス・ゴセット・ジュニアの好演などもあり、日本のアニメものに原型があるかと思うほど「国境を超えて」、日本的です。ここで云う日本的とはアメリカ的と云う事と同義的な意味合いであり、つまり両世界に共通した建前としての男社会の価値観が描かれているのです。近代化の過程にあった日本が、武士道倫理と習合する形でアメリカ経由のプロテスタンティズムの論理と倫理に影響されたということもあるのでしょうけれども、ここでは触れることが出来ません。

 また、余りにもアメリカ的過ぎるアメリカと云う意味での、士官学校を描いたということ、と云いますのも、伝統的なヨーロッパの社会と異なって、出自や学歴とかの属性的要因に関わらずサクセスストーリーを語りうると云うのが世界に先駆けた日米社会の際立った特徴なのですが、その卓越せる特性である建前性とか男社会の論理を、徹底的に、アナクロなまでに無防備かつ無邪気に描いたのがこの映画なのですが、時を降るに従ってこの映画を支え続けている観客層が主として女性であると云うのも興味ある現象でしょう。残念ながら多くの女性観客を敵に回すことになるこの問題も触れることはできません。

 価値観の異なる社会に産み落とされたとして、もしかして感じてきた女性が、皮肉にも自分の夢を実現した代表作が、自分の意図や志とは正反対の内容の映画であったと云う皮肉な現象をどのように受け止めたのか、ということを想像させてしまいました。わが国にも原節子から山口百恵に至るまで若くしてスクリーンから姿を消した女優さんはいますが、価値観が異なると云う社会の多元性に直面すると云う問題は、日本では無縁なのです。価値観の違いは、ギアがアメリカ社会の男らしさを正調で演じれば演じるほど、消化しきれない違和感のように残り、それが余情の如きものとなって今日でもこの映画を見るに堪えるもの、不思議に魅力ある二重化としての残像映画としているのです。

 ほかの芸術作品の場合もそうですが、意図された作品と結果として得られた作品は異なります。リチャード・ギアが正調としてのアメリカ社会の建前と男社会の論理と倫理の卓越を無邪気に確信して滑稽に演じれば演じるほど、この映画は女優デブラ・ウィンガーの存在を一個の遺物として含むことで不思議な余韻と余情を言外に散らす、複雑にして多感な複層映画として見ることを可能にしているのです。

 この映画はまた、利害を超えたそれ自身においてある純粋性としての愛と云うアメリカ社会固有の教説についても多弁に語っています。ギアが演じた主人公と対比的に描かれるオクラホマの純朴な青年は愛に裏切られて最後は死ぬことを選びます。仕官候補の課程も終了できず突然愛に目覚めて求愛するも、わたしが結婚したかったのは将校となったあなたであったと、にべもなく断られてしまう。つまり、ここでも愛は世俗の属性や諸条件を超えて自律的に価値あるものだとする論理が、日米の、身分や出身階級、学歴等に関係なくサクセスストーリーを描個人の努力次第で描きうると云う論理とパラレルかつ相似形になっているのですね。そして驚くべきことには、かかる建前と男社会の卓越を論じる価値観を等しくするものが、映画の場合では女性層であった、ということなのです。露骨なまでの男社会の論理と倫理を無批判的に首肯するものが女性層の感受性であると云うイロニーですね。これをどう考えたらよいのでしょう。女性の問題は女性の方が良く理解しうると云うのは選挙の際の利便的方便性を除けば日本女性の感傷的な思い込みに過ぎません。

 この映画を複眼的に鑑賞しうるかどうかは、この映画が小津の『麦秋』に似ているかどうかに気が付くかどうかとも関わりがあります。小津の同映画は近代化日本が敗戦と云う事態を境に、戦前までは根強く残存していた身分や社会的属性を振り切って、それ自体としてある愛の純粋性や家庭像と云うもののあり方を日本社会の現実の中で問うた作品でありますが、『愛と青春の旅立ち』はかかる価値観の本家本元としてのアメリカに於いて、一人の女優の実存の苦渋を描いた作品としても今日見ることができるのです。

 デブラ・ウィンガーを探して、公論としての女性論とは何のかかわりもないと云うお話でした。