アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デブラ・ウィンガーの『永久の愛に生きて』 アリアドネ・アーカイブスより

デブラ・ウィンガーの『永久の愛に生きて』
2014-07-28 10:21:39
テーマ:映画と演劇




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 こんな映画を臆面もなく作れるとはさすが、アングロサクソン系の感性には特別のものがありますね。大学教授と子持ちのシングルマザーの素晴らしいラブロマンス、ヒーローはかの『ナルニア国物語』の作者、C・S・ルイス、イギリス風の独身主義者の晩年にふと訪れた生涯最後の恋、対する子持ちのヒロインは、アメリカの売れない女流詩人で、離婚歴があり、ルイスの愛読者と云う設定になっている。

 この米国の売れない詩人をデブラ・ウィンガーが好演していて、老いらくの恋には何か人生最後の贈り物のような余韻が残ります。対するにイギリスの名優アンソニー・ホプキンスの自信に満ちた、伝統としてのイギリスの保守主義そのものを演じていて、このような娯楽映画は日本では逆立ちしても作れないな、と思ったものでした。

 内容は、あるルイスの女性愛読者が本人に会いたがっているが、どうするかと云う男同士の軽妙な会話から始まる。知名度抜群にしてにして高名な世界的作家と熱心な女性の読者とくれば案外内容は想定されるのであり、ありがちな女性の下心、男同士、共犯じみた苦笑いを禁じ得ないのであるが、想定されるその後のロマンスの経過まで仮定法で語って、お見通しの二人は世間話のついでに些事は忘れてしまうのである。
 ところが偶然とは何かしら必然の要素をはらむもので、ある日ルイスは子連れの女性に曳きあわされる羽目になる。一方、カウボーイの国アメリカでT・S・エリオットのような寂寥を感じていた売れない女性詩人はC・S・ルイスの背後に、荘厳なヴィクトリア朝の残照を浴びたイギリスの伝統の厚みそのものの象徴を見る。

 いたいけない子供がロマンスの橋渡しをすると云うのもハリウッド映画などの定石通り。子供も無論『ナルニア国物語』の愛読者で、親子でルイスの心酔者であると云う構図が成立する。
 C・S・ルイス、今さら女性問題などには興味はないのである。他方、カウボーイの国で男性遍歴には失望の経験を持つ女流詩人は、性差を超えたプラトニックな愛と云うものの存在を初めてこの世で知る。映画の中で一番印象的なのは、オクスフォードの社会に招待されて構内の会堂で聖歌やイギリス国家が詠われる場面に遭遇して、その荘厳さにうたれる場面である。ルイスを通じて背後にあるイギリス社会の伝統の重みを、イギリスの文化を通してアメリカ的価値観とは異なった世界がありうることへの脅威ににも似た感動は彼女のうちを、穏やかに流れる聖歌の荘重な抑揚のように、あるいは清冽な泉の迸りのように経過する。

 イギリスの特権階級と云うものは独身を誇る場合でも女性関係に不自由しているわけではない。伝統文化や男同士の友情の卓越の前に、女性の問題に運命を託しうるほどの重大性があるとは思わないのである。戦後の日本人には分かりにくい論理と心理であると思うのだが、背景には欧州の伝統社会に於ける古典主義的な教養、ラテン語ギリシア語を必須の教養課程とする高等教育に於いて、ギリシア風の理想と云うものが無意識の内に前提され、時間をかけて涵養されてきたためかもしれない。この点、同じイギリス人と云っても、中流階級以下の行動と心理とは違うものがあるのかもしれない。

 イギリスはジェントルマンの国であるから女性に冷淡なことと不親切である事とは共存しない。ルイスは、この孤独な米国の女流詩人が経てきた異国の時間の長さを想像する。社会的名声とアカデミズムの世界の成功にもかかわらず彼を無防備にしたのは、売れない女流詩人が子供を深く愛する普通の母親でもあったことだろう。しかし相手の事が理由もなく可哀想なことに思えると云う心理が、漱石ではないけれどもロマンスの始まりである事について、熟達した人生の賢者は知らなかったのだろうか。

 物語が急展開するのは母親が検診の結果、癌であることが判明してから以降の事に属する。既にその前からイギリスの伝統と風土こそ終いの棲家だと観じた母と息子は、イギリスの最下層階級が住む半地下のアパートに引っ越してきている。ルイスが残された子供の将来を憂えたのかどうかは分からない。合理的でいて慎重極まりなく、常に判断を間違わないイギリス伝統社会の男がたまには判断を間違うと云う事例だろうか。静かな余生をオックスフォートの知的な特権的なソサエティの中で送るはずの世界的な作家が、見ず知らずの親子の運命に心を痛めると云う事態に直面する。

 母親は苛烈な闘病生活の甲斐もなく、亡くなる。アメリカの社会にあって常にここは自分の故郷ではないと念じつ続けてきた永遠のディアアスポラを、ユダヤ系ハリウッド女優、デブラ・ウィンガーが渾身の演技で演じ終える。

 死は人と人との間を分かち、人と人との間を結びつける。彼女の死のあとに残された三人が、――C・S・ルイスと同じく独身の兄がいる兄弟風景が、そして残された男の子の肩を抱くようにして、共通の、うるわしい麗人の亡き面影を抱いて生きる姿が、荘厳にして厳粛と云うよりはオクスフォードの大学教授にして高名な世界的作家ルイスの存在感とは非対称形の、男同士の肩を寄せ合う、滑稽とも思える哀歓を籠めて描かれたラストシーンが感動的な映画でした。