アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『富士日記』と『冨士』 アリアドネ・アーカイブスより

富士日記』と『冨士』
2014-08-16 11:51:30
テーマ:文学と思想




 山中湖にて 2014年夏

 武田泰淳の名を、第一次戦後派をリードした著名な大家の名を今日インターネットで探しても、夫人の『富士日記』などの武田百合子さんの方が先に出てくると云う印象は、これはこれで間接的に今日純文学と云われたジャンルがどのように扱われているかの間接的な印象になっていると思うのですが、この点には触れません。
 武田百合子の『富士日記』には確かに、著名な作家の、夫人の手になる回想録と云う範囲を超えたものがあります。一つは、その上中下三巻にもなる長さ、第二に描かれた世界を富士山麓の別荘村に限定すると云う百合子氏の編集方針、です。このことから得られる読後感は、ある一定の期間、一定の範囲で固有な生き方をした人がいたということ、それが素の物語が終わったのちも何十年にも渡って語り継がれ、少なからぬ読者を魅了し続けている、と云う現状があるのでしょう。
 『富士日記』は、読み始めて最初の百ページほど、一般の読者から斯界の権威に至るまでを魅了させた魅惑と魅力について理解することが出来ませんでした。例のトンネルをめぐる泰淳氏の無邪気で自己処罰的な行為を読むに及んで、初めて百合子氏にとっての戦後の時間と云うものが、具体的には富士山麓で泰淳氏たちと過ごした時間の特権性と云うものの意味に思いあたったのです。つまり首都圏における有名人の私生活の中から、ある一部分を、かけがえのない一部分を切り出してきた、と云う感じなのですね。しかも通常の回想録と異なっているのは、それは受け身として描かれた対象的世界があるのではなく、百合子氏にとって、人工的に夢見られた世界としてあった、ということなのですね。つまり二人の接点とは、戦後復興の兆しを顕著に見せ始めてきた1960年前後における日常性と、世界に習合させて生きていかざるをえない武田家の家族も含めた日本人の大多数と、そこから物置部屋の片隅に忘れざり得ぬものとしてあった泰淳氏の戦時下の記憶と、もしかしたら家族流転の自伝史の中で戦後的時間の中に束の間の係留地を築こうとした悲願ともいえる女性の細やかな願いが、ひと時共振した、巡りあう時間ともいえる経験がそこにあった、と思うのです。富士日記を一読して感じたのは、一度自殺した、あるいはそれに類似した経験がある女性だな、と云う直観でした。表面的には、60年代の陽性の方向、消費者文明と近代化の方向を謳歌するかにみえる百合子氏の著作を読みながら感じたのは、戦後の時間と云う表現力を超えた大洋の如き茫漠とした時間の中を漂流する武田家の物語と、それを語るに足る物語として定着させようとする世界創造者としての百合子氏の意志でした。その悲願にも似た意志の必死さに泰淳氏も、そしてわれわれもたじろがざるを得なかったのです。
 この時期、戦後的な時間とは何であるかを自問自答する姿は、例えば梅崎春夫などの著作にも描かれています。武田泰淳はこの世代よりも少し長生きしました。第一次戦後派に続く第三の新人と呼ばれた世代が、例えば小島信夫庄野潤三などによって、家族の再建というテーマが主要な主題として選び取られたこと、『抱擁家族』や『夕べの雲』として、また、これを集約する形で江藤淳に『一族再会』や『成熟と喪失』があるということは示唆的ではありますが、ここではこれ以上触れることが出来ません。
 つまりこの世代は、急激に様変わりしつつあった戦後的時間の変貌を前にして、それとどう付き合うか、自らの実存をどのような形で習合させていくのか、と問うていたのだと思います。より拡大された観方をすれば太宰治や梅崎春夫のように戦後的時間の中に討死にも似た自己抹殺か自殺願望を遂げたものを別にすれば、戦後的時間の繁栄の中で自らの生きるスタンスを探し求めたのがこの世代の特徴であり、泰淳氏も百合子氏もこの流れの中にあったのだとは云えると思います。ただ残念なのは、と云うよりも皮肉な現象としては百合子氏の『富士日記』が今日読み継がれている理由が、消費文明の都市スタイルと云うべきものを不随意的に実現してしまった百合子氏の生活スタイルが、戦後的時間の苦渋をまるで知らない後々の世代に支持を受けているということですね。このことは誤読ともいえるし、また、一般的には作者の主観的な意図をも超えて読者によってその魅力が発見されると云う芸術文学における普遍性の問題であるようなきもします。

 さて百合子氏の『富士日記』の中に断片的に描かれている泰淳氏が、描かれなかった側面で何をしていたかと云うと、言うまでもなく著述業としての作業、主として遺作となった小説『冨士』の執筆作業であったと思います。富士山麓への別荘移転は、泰淳氏が著作に専念できる環境を整えると云う意図もあったと思います。
 小説『冨士』は、以前紹介したように富士山麓の精神病棟を舞台として描かれたものです。時期は戦争末期、敗色が濃い時代背景があり、憲兵や特務将校と云うおどろおどろしい人々も端役として出てまいります。
 精神病院とはある意味で不治の病でもあり、精神病棟ではありませんが第一次大戦開戦直前のサナトリウムを舞台にして描いたトーマス・マンの『魔の山』を思いだしますが、この小説もやはり観念小説として成功失敗ともども大きくあります。泰平の世を前にして第一次戦後派としての泰淳氏が何を考えたのか、と云う意味でも興味深いものがあります。

 成功していると思われる第一点は、病棟の最高管理者である院長の描き方、今日から見れば、どちらかと云えばユダヤ的なキリスト教理解があります。この院長先生は職住一体型の古いタイプの精神科医であるらしく、過去患者の恨みを受けて放火事件を引き起こされている。そして小説を読み進むと、第二の放火事件が予兆として予感されているかの如くである。しかも若き精神科医としての語り手のその後に手に入れた見聞によれば幼い長男の過去の不可解な死もまた他殺であるかのようにも想像される。その証拠に、残されたもう一人の幼い長女と夫人をめぐって不気味な襲撃事件を引き起こすのである。興味深いのはかかる劇的なドラマ構成にはなく、院長先生と云う人物が過去、未来を通じて、自身をめぐる事件や事故に対してなんらの予防策を断念しているかに見えることだろう。つまり通常は怒れる神、罰する神としての印象が強い旧約聖書の神が実際は最愛の息子を犠牲の羊として奉げる悲劇の神であったように、小説『冨士』は日本の戦後の現実の中に旧約的な世界像をなぞっているのである。
 この点はどのように考えたらよいのであろうか。わたしの考えではこの当時の泰淳氏の印象は当時の学園紛争と云う若者たちの反乱の時代の影響に引き摺られた面があったのではないかと想像している。単純化していえば精神病棟とは全国各地で吹き荒れた大学そのものであり、院長先生とは当時の良心的な進歩的文化人のようであったかに見える。院長を取り巻く多彩な患者たちのプロフィールは当時大学に巣食っていた左翼思想の諸流派であったかにみえる。
 大木戸と云う院長と同世代の患者がいるが、かれは院長の影の面であり、人間と云うものが精神性を失った場合にどこまで堕ちうるか、と云うものを描いている。堕ちると云っても倫理道徳の意味合いではない。精神性を奪われた場合に、人間は人間としての特性をひとつづつ無くしていくのだが、最終的には食欲のみが残る、つまり同時期にソルジェニッツインが描いた『イワン・デニソヴィッチの一日』に描かれた現実である。
 自らを華族だと信じる一条は、むかし語り手と同じ医学部の同僚であり、レインなどの反抗的な精神医学を代表しているかに見える。あるいはそれ以上に当時の左翼運動のインテリジェンスに関わる部分を代表しているともいえる。
 それ以上に、大学紛争にキリスト教「精神」――キリスト教ではない――が係った証拠には、庭京子と呼ばれる女性患者の、処女懐胎と云う妄想に典型的に描かれている。現世の父――権力一般、あるいは大学当局――を否定し、処女であるがままに自体的、単性的に自己分娩しうると云う奇妙な思想は当時の新左翼の思想を要約していたかにもみえる。
 鳩を愛する平和主義者としての間宮が最終的に殺人者として現象する寓意は何だろうか。また間宮と連動して現れる岡本と云う星観察に特化した、一見ロマンティックであるかに見える少年の心を喪失した無機性は何を象徴するか。残念ながら武田の『冨士』は説得的に描いているとは言いがたい。
 武田は『冨士』を描くにあたって精神医学の本を熱心に研究した形跡がみられるが、ノイローゼや神経症と云うものと、精神分裂病統合失調症)との区別をしていない。一条や庭は前者、間宮、岡本は後者だと思うのだが、20世紀以降顕著になった精神分裂病の脅威と云うものを描き得ていないのである。物語の筋道としては何ものかが間宮の愛する鳩を殺し、それが引き金となって殺人者と犠牲者の世界が再現される。その世界狂乱を通じて外部の権力機構の干渉を許し、観念論的な19世紀的な世界――あえて言えばドストエフスキー的な世界は崩壊し、そこには80年以降の岡本に代表される無機的な世界が現れる、と云う現代史の筋道になると思われるが、武田のドストエフスキー的な枠組みが、当時の大学反乱の時代とそれ以降に続いた高度成長と、高度に管理化された社会への展望を困難にしているのである。もし今日われわれが『冨士』を読んで物足らなく思うとすれば、武田の19世紀的な枠組み、ドストエフスキー的な観念小説としての限界なのである。

 19世紀的な神話的なものとどのように取り組むべきかは、現在、ベンヤミンなどを通じて学んでいるところではあるが、人間性の底にあるものをユングのように元型的なものとして積極的に評価するのか、フロイドのように系統発生的な人類史の悲劇として悲観的に読みこむのか、あるいはヘンリー・ジェイムズの『ある貴夫人の肖像』や『大使たち』以降の三部作のように、愚かだとは知りながら苦界の中に選択的に自らの運命を沈めていくことに最後の人間的であることの活路を見出すのか、21世紀の取り巻く環境的世界の苦渋は深い。