アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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自然がわたしに語ったこと アリアドネ・アーカイブスより

自然がわたしに語ったこと
2014-09-02 18:17:16
テーマ:文学と思想

 

 デボラ・カーが主演した『黒水仙』と云う映画があるのですが、ヒマラヤ山奥で布教に勤しむ修道女たちの話、事情は明かにされないけれども、一度生涯に屈折を経験した若い尼僧が、ヒマラヤの奥地に開設される修道尼院の院長に抜擢されるが、二つの理由によって、彼女の堅固な意志と宗教的な意識にも関わらず挫折する、そういうお話です。二つの理由とは、外なる環境と内なる内面、ピマラヤの欧米の社会とは余りにも隔絶した環境と、否定できない人間の内面性ゆえに、と云ったらよいのだろうか。わたしにはこの映画は大変に難解である。

 映画の粗筋は、ピマラヤの奥地の修道尼院を舞台に、村に一人いる白人の男性をめぐる修道女たちの屈折した感情と云えばいいだろうか、女の嫉妬心や猜疑心、と云った分かりやすい項目を丁寧に描くことで展開するのだが、わたしの心をとらえたのは、内面外面に共通する、人間における自然さ、自然性、郷愁のように呼び出されるこころ痛いような思いの方であった。

 人里離れると云うだけでは十分ではなかったに違いない。ヨーロッパの文化文明から隔絶された環境のなかにあって、院長が最も信頼していた、――と云うか若い修道尼院長の補佐役として付けられてきた百戦錬磨のベテラン修道女に於いてさへ、驚くべきことに最初の心の陥落が起きる。
 軍隊のように規則、規律正しい修道女たちの、日々の濃厚と静謐な祈りの日々に於いて、彼女は驚きに似たものを語る――初めて文化や文明と云う枠を通さずに、もしかしたらこれが自然の相貌でもあろ云うかと云う実態、元型としての自然に直面する。――
 平の道士としてこれまで経歴を積んできただけの、学歴のない彼女にはそれを言葉では説明できない、つまり日々を暮らす人間としての最低の環境の中で、つまり、具体的に眠り、働き、食事をすると云う人間の最低条件の中に於いてすら人は十分に満ち足りたものであると云うこと、――否、衣食住と云う最低の条件に殆ど何も付け加えるることのない首尾一貫した簡潔さにおいてこそ見えてくるもの、それが自然である、と云う驚きなのである。日々の暮らしの単調さの中から、文化文明によって先験的に植えつけられた諸属性が禅の修行のように心身脱落をして、最後の残るもの。生活の簡素さゆえに、その単純なテンポが自然の生業のテンポに一致し、そこで内在的に見えてくるもの、内側から身体の体感的眼差しとして見えてくるもの、その超越的な経験について語る。
 ある日修道女は苦しみに耐えかねて、或は経験が告げ知らせようとする余りの内在的経験の純度の新鮮さにたじろぎながら、苦渋に満ちた表情で修道尼院長の前に告解する。――このままここにいては、信仰を保ちえない、良き修道女であることを保つことに自信が持てなくなった、と云うのである。これは、キリスト教徒であることに疑問を持ったと云う意味ではない。そうではなくて、宗教心なしに人は生き得ると云う事実に驚いている、事実が示す端的さに驚いている、と云うのである。人間の現存在の様式、その簡素さ、の中に、キリスト教は必ずしも含まれていない――のかもしれない――と、彼女は言いたいのかもしれない。
 残念ながら、映画はこの方向へは深められることはなく、マイケル・パウエルエメリック・プレスバーガーの映画はありきたりの女同士の本音と嫉妬と猜疑心の話に収斂していったようである。

 これに似た経験はわたしにもある。1982年のことである。国道三号線を、二号、一号と、東に向けて自転車で走っていた。長く走るために不要な荷物は持たず、リュックの中はシャツと下着の替えだけだった。折からの三月は雨の日が続いて長距離トラックから波のように跳ね飛ばされてくる泥水を頭から被りながら走った。九州を出てから四日目だったと思う。雨が上がり備中路の石灰石が露出した小山の波のような連なりの中を走っていた。ふと、風の方向が変化しているのに気付いた。ペダルを踏み込む感触の中に、視覚や嗅覚に先行して、体感的に感じた。むろん、見渡した山や木々の佇まいはいまだ冬のものであった。しかし微かな風の便りの中に、春へと向かう自然の鼓動を聴いた。その時、自然と身体が一致した。自然の波動とペダルを踏む呼吸が一致した。人間的様式がその簡素さの果てに自然と区別できないものへと変化した。つまりこの時持った感慨とは、今過ぎつつある時間が永遠に続くと云う確信である。今まで閲してきた実存としての人間を支えてきた生きてあることの根拠、価値観は跡形もなく消え失せていた。まさにゲーテの登場人物の一人のように、時よ止まれ!おまえは美しい!と云いたかったのだろう。

 こうして三月初旬の暗い雨に降りこめられながら、その後も何日か、灰色のアスファルトの舗道と長距離トラックの黒い影に閉ざされた空間を見ながら走った。事件と云うものは何一つ起きず、規則的に、冷徹に昼と夜は交代し、一日の走行距離を確実に刻んだ。走るにつれ過去を、そして自分自身を忘れた。この認識から得られた静謐な結論とは、この世とは異なった世界がある、ということだった。その冷徹な認識は同時に、しかし何事にも終わりと云うものはあり、経験にも終わりがある、と云うことだったろう、――経験を持ち帰ることはできない。ひとまずは当初の目的地であった夜の東京タワーの人気ない足元にひとり滑り込んだ時も感激はなく、この先、自らの亡骸を引き摺って生きていくことになるのだな、という漠然たる思いがあった、明るい絶望、と云うか、湿り気のない乾いた感傷と云うか、寂寥にも似た思いに浸されてあった。
 重畳する波のように押し寄せる近未来の日常の連なりが圧倒性をもって正確に眼に見えるようであった。


1983年 オホーツク海を北上中