アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『魔の山』の思い出 アリアドネ・アーカイブスより

魔の山』の思い出
2014-09-12 19:15:38
テーマ:文学と思想



 書棚から埃を払いながら取り出した本は高橋義孝訳の新潮文庫、昭和四十四年三月二十日発行とある。この年に読んだはずで、――そのことはあとで述べるような特別な思い出と結びついているのだが――読み通すとすれば四十七年ぶりの再読と云うことになるのだが、記憶は完全に脱落していた。思い出したのは僅かに、セテンブリーニとナフタとの間に交わされた饒舌な論争であり、最後に出てくる二人の意外な決闘の顛末を述べた部分、主人公ハンス・カストルプが幕切れの戦火の硝煙の中に消えて行く場面である。意識の脱落は当時の読解力の弱さのみだけなのだろうか。

 トーマス・マンには当時興味がなくて、マンの読者の多くのように、『トニオ・グレーゲル』も『ベニスに死す』も『ブッデンブロークス』も読んではいなかった。いきなりこの本を読んだのには理由があって、大学の選択科目の教師が最初の授業でこの本の事を取り上げ熱烈に語ったからである。それでその後も何時もこの小説の事が話題になると、わたしの場合セットのようにこの教師の面影が付きまとって離れないのである。
 その後、この思い出はわたしの個人的な理由によって二つの意味で特殊なものとなった。一つはヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』との出会いである。彼は『論攷』の本邦初の紹介者の一人だったのである。読んでみると当時のわたしにはマンの小説よりもこちらの論攷の方が刺激的だった。言語の果敢なる冒険とも真理と神秘性への越境的疑似自殺的行為とも取れるこの本の魅力は、当時の社会情勢と連動して深甚な影響を与えた。今日から見れば論攷の読後論的予感と『魔の山』の第一次大戦の勃発と霹靂による終末論的な雰囲気は奇妙にも一致していたのである。と云うことは、ヴィトゲンシュタインの研究者であられた坂井教授殿は既に60年代後半の黙示録的な世界を生きていた、と云うことになってしまうのである。その後、接触は自然に疎遠になったので論攷を読んで受けた感動を先生に伝える機会は訪れなかった。ほかでもない、二つ目の個人的な理由とは、その後、先生が早く亡くなられてしまったらしいことと、意外にも、束の間のようにこの世で最後にお会いしたのが学校が逆封鎖された日であり、先生はゲートの入出退の立ち会い者として、わたしは通過するその他大勢の一般学生の一人として通り過ぎたそのすれ違いの微小な時間のことである。先生の表情には戸惑うような困惑の影が瞬間浮かんだようにみえた。或は、わたしが先生の表情に重ねてみたと信じた揺らぎはわたし自身の影を投影した結果であったのかもしれない。

 さて肝心のマンの『魔の山』の事であるが、実に多彩な登場人物たちが出てくる。印象深いのは先に少し述べたセテンブリーニとナフタと云う、ヨーロッパの精神的世界を総体として具象するかのような二人の人物である。
 セテンブリーニは、語り手によって人文主義者として紹介されるイタリア人である。彼の祖父はイタリアの祖国統一運動に関わった闘士でありかつ啓蒙とフランス革命の信奉者である。父親も同様であり文化人として時代に批判的に関わり古典的な意味での知識人像の伝統を継承している、セテンブリーニもまたの気質と信条において伝統としての自らの知識人像を形成しそれを人文主義者と専称することに於いて自画像は揺らぐことはない。かれはダヴォスがモデルとなったスイス高地の保養地、サナトリウムを舞台とした、不治の病を持った者同士が寄生する「魔の山」の世界の当初の案内人であり、主人公の教育担当者つまりチューターのような役割を引き受けている。
 対するにレオン・ナフタはヨーロッパ精神の影のような人物であり、むしろ精神史がセテンブリーニのような建前に於いて論じられ語られるとき、ユングの用法を用いれば補償的に出現する影、と考えてよい。彼の設定が特異であるのは、病弱ゆえに聖職者の正規のルートから外れたアンチエリートとして歩んだ経歴と歪んだ性格の上に、キリスト教と――彼はジェズイット教徒であると同時に、共産主義者としして、また、サヴォナローラ的な狂信的な原理主義者であるとともに、後の新左翼的な思想的な思想にみるような思想的テロリストとして設定されている点である。実際に最後の結末に見るように、決闘の場面でセッテンブリーニが見せた古代の王者的な尊厳に替えて彼が敢行するのは自らの身体に向けられた自己テロル(自殺)なのである。
 通常はこの主人公ハンス・カストルプを間に挟んでシーソーか綱引きのように何から何まで対照的に設定された二人であるが、実際にはわたしもまたある特定の人物を念頭に置いて読んでいた。その人物とは一部で指摘されているようにハンガリーマルク主主義者のゲオルク・ルカーチである。トーマス・マンもまた、若き日のルカーチウェーバーサークルで見たはずであり、あるいは接触があったことは十分な信憑性の元に考えることが出来る。ハイデルベルク時代のルカーチがナフタの中に反映されているのかもしれない、と云うことはかなりの蓋然性をもって云えるだろう。しかしそれ以上にセッテンブリーニの中に戦後の後期ルカーチが影を落としているとは言えないであろうか。つまり初期ルカーチと後期ルカーチを、全く同一人物でありながら歴史が軋みつつある流れの中で別人のようになりおおせた二人のルカーチの、歴史的実存が強いた対立をわたしはこの小説を通して読んでいた。
 若き日のルカーチは革命とは何かと問われて、童話や精霊の世界が地上に再現することだと云う言うようなことを語っていた。その後政治に積極的に関わる過程で、現実的には非合法性の臨界点において、革命の目的性に於いて如何なる場合にテロルは許されるかと、 ドストエフスキー的な論議をすることで革命的諸流派の中では特異な立場にいたようである。革命と反革命のせめぎあいの中で彼もまた指導的な立場にいたゆえに、非合法的な判断を下さなければならなかった。そして自らも自らの政治的信条を貫くために取った複雑な立場ゆえに、ロシア正統マルク主主義者との間に、あるいはサルトルらの西欧の知識人層との間に微妙に捻じれた均衡的な関係を結んだ。しかし戦後マルク主主義を代表する文化人としての履歴の背後には彼自身の経験の影の部分もまた明らかにされた。革命と反革命白色テロルの裏切りと疑心暗鬼の中で取った彼の行動が非人間的であると云う批判を戦後浴びることになるのである。

 ハンス・カストルプをめぐる登場人物たちはセッテンブリーニとナフタのように対になっていることが多いが、主人公を出迎える病院側の院長ベーレンスと副院長格の医師クロコフスキーもまた対称的に設定されている。ベーレンスは結核とある種の内科手術の盟主とされているが小説では顕著な成功例は紹介されていない。彼に引き合わされた患者は主人公のように最初は軽傷と診断されるのだがサナトリウムに滞在するうちに次第に重症化していく。小説の最後の方で、切り札ともいうべき血清療法によってハンスの治療にあたるのだがはかばかしい成果を収めることなく沙汰止みになる。彼の不思議さはそれでも彼が一貫して名医の賞賛を勝ち得ていることであり、あるいはこれは小説で描かれた範囲に於いてはそうであったに過ぎないと云うことなのだろうか。
 他方、講演好きでよりアカデミックなクロソフスキーは、思弁的で哲学的な思索を好む精神科医のように描かれている。ユング派の診療者のように彼が好んで取り上げられる側面は、愛や幻想と云った目に見えない形而上的な世界や、不気味に沈黙した無意識の世界の紹介者としてである。施術治具としてのメスを心のメスに取り換えたフロイド派の医師とユング派の医師が間接的に描かれているといっても良いだろう。ベーレンスの限界は彼の近代主義的な方法では、結核と云う象徴的な名称として語られる人類の「病」には太刀打ちできない、と云うことだろう、同様にクロソフスキーの無意識やオカルト的なものへの関心は、学問そのもののためと云うよりも、人間性の尊厳を傷つけるとマンは考えていたようだ。クロソフスキーの黒魔術は降霊術のような儀式を用いて死者をこの世に導き出そうとするのだが、カストルプは堪えられなくなって部屋の照明を明るくしてご破算にしてしまう。
 マンの、フロイドとユング派に対する評価に関しては妥当であるかどうかは別として、両者がともにヨーロッパの悪について、その根源性に対峙し続けた思想家であったことは間違いないだろう。悪と云っても勧善懲悪の悪ではなく、二人が直面したものは無意識と云い人間の元型性に潜む超人間的なものと云う意味で、不可視なものごとの対象である。
 ここでついでにわたしの通説とは異なる『魔の山』解釈を語っておくと、ペーペルコルンと云う人物に要約された人物の扱いである。多くのマン解釈はこれを肯定的人物であるとして理解し、従兄のヨアヒムのようにマン固有の市民性や生の世界に関連づけて理解しているようだが、彼はなによりも魔の山への登場の仕方に於いて異界性を帯びている。何と彼は「人物」として、他ならぬカストルプの永遠の思慕の対象であるマダム・ショーシャのパトロンとして現れるのである。彼を特徴づけるのは片言の言語であり、オランダ人としての彼がドイツ語に習熟していないからと説明されているが、そうした技術的な末梢的な問題ではない。むしろ彼が言語の片言性において有無を言わさず周囲を納得させてしまうこと、そこにおいてマンが敬愛する市民的伝統が言語の非力さにおいて、有無を言わさず時代の非合理で暴力的な構図の中に取り込まれていく近未来の形を予感的に描いているのではないのか。事実彼の死を境に、方向は異なるけれども、180℃反転した自画像としての悪魔を歴史は要請するからである。
 
 結局トーマス・マンが20世紀初頭のヨーロッパに見た悪とは、個性的な登場人物の口を通して、あるいは論戦の過程で様々に表現される。それは結局、「鈍感さ」と云う名の悪と云うのであるが、マンは詳しくは説明していない。マックス・ウェーバーが官僚制と管理社会の中に、鈍感さの悪に似たものを感じていたことは間違いない。その悪とは粗野であるとともにい極度の繊細さをも併せ持つものでもあったのだが。戦後のハンナ・アーレントになれば明確に名指されることになる凡庸さの悪、いわば大衆社会が持つ悪なるもの、言語の否定と暴力、具体的には議会制民主主義の手続きの中から生まれてくるヒトラーとナチズムが想定されていることは、後の歴史的経緯を見ればある程度はうなづける面もあろう。

 さて、セテンブリーニとベーレンスには近代主義者としての共通した面があるとともに、ともに美や芸術を愛する古典ギリシア・ローマ的な人文主義的な雰囲気に於いても共通する面がある。そしてともに、時代の展開点において悪と危機管理に関して有効な手立てを施すこともできずに、ともに有力な精神的感化を主人公ハンス・カストルプに与えることなく退場していく道筋に於いても共通するものがある。そして何よりも共通するのは、二人の無神論である。セテンブリーニがフリーメイソンであると云うこともそうした理由として使われている。

 周知のように、ヨーロッパの精神史を特徴づける話題は自然と神の関係であるが、通常神はかかる二元論的構図の外部にあるものとして想定されるのがプラトン以来の伝統である。二元論を巧みに変形した、神の優位に於いて語られる一元論と云う体裁をそれはとってはいる。しかし一元論では神の絶対性は説明できても、この世の現象や実在性が説明できない。それで精神が如何にして受肉して目に見えるもととして物化するかと、様々な受肉化の思想が、三位一体論などの教義を代表として語られてきたのである。
 セッテンブリーニやベーレンスの考え方は、神が存在するとすれば、自然とは神と云う観念が自らを通して物化した姿であり、神とはまた観念が物化する過程で生じた歪のようなものであるのかもしれない。何となれば、神は自らを自然の中で生み出す過程で人間を生んだのであり、人間が人間であることの成就をとおして神の目的が実現されるとも言えるからである。かく考えるならばセッテンブリーニもベーレンスも必ずしも神を信じていないとは言えない。神の存在を超越的な静止像とするのか、生成的な過程ととらえるかの違いに過ぎないのではあるまいか。
 観念とものの考え方は、ここでは単純な精神と物質、心と肉体と云う二元論としては語られていない。ナフタがスコラの伝統から神の絶対性と唯一性、精神の卓越を論じるとき、精神に対して物質を対峙させると云う論法はとられていないのである。素朴な唯物論の誤謬は自己原因を説明できない。魔の山で論じられたのは、精神がそれ自体で静止的な卓越の中で自己均衡するものであるのか、つまり神は超越として世界に現れるのか、それとも精神とは何らかのものの形を取りうることに於いてしか精神たりえないように神もまた人間と云う似姿に於いて自らを成就するほかはないのか、と云う議論なのである。しかし何れであるにせよ言語の非力と云う問題は、時代の非合理な暴力、名付けるところの文明の野蛮に対してなす術もなかったのである。20世紀に於いては神も精神もまた自らを成就することなく沈黙する。
 ヒトラーとナチズムが何よりもまた特徴的な歴史への登場の仕方が、焚書と云う行為であったことの象徴的な意味を重ねて『魔の山』を読むことを推奨したい。

 しかし『魔の山』の終わりは、かかる有意義でもあれば繊細で神秘性に富んだ議論も、第一次大戦と云う名の劫火、青天の霹靂の中では非力で、雪崩のように地響きを立てて生じた世界史の真空化の現象の中ではなす術もなく、つまり悪の世界の中へ山崩れや雪崩れのように押し流されて行ったということだろう。
小説の最後では絶対平和主義者のセッテンブリーニですら、好むと好まざるに関係なく決闘と云う、文明の野蛮の場面n引き出されるのであり、もし肉体がもう少し若く健全であったならば、戦場の硝煙の中に定かとは言えぬ後姿を晒して消えて行ったハンス・カストルプのように、平和のために、民主主義のために、そして民族のために銃を取ったであろう、と云うことなのである。絶対平和や非戦主義の理念を貫くことは具体的な状況の中では容易いことではないのである。

 最後に松岡正剛が千夜千冊のなかで書いていることだが、日本文学はかかる個人の心理的葛藤を超えた人類史的な思想小説を書けなかったし、また日本にはそうした土壌が育たなかったので、国民としての経験としては『魔の山』読解は、贅沢な知的な冒険の息を脱することが出来ないのではないのか、というようなことを書いている。しかし初めの方で坂井先生の『魔の山』や『論理哲学論考』の読み方などにも現れているように、わたしの周辺にもミニ・セッテンブリーニのような人物やミニミニ・ナフタのような人物はいた。わが国の60年代における吉本隆明江藤淳磯田光一などが得意とした進歩的文化人批判はナフタ的なものの表れであり、心情的にも理論的にも新左翼の理論家たちや心情家たちを支えたことは知られている。ミニ・ナフタ的でもなく進歩的な文化人的でもない中間の道を、より困難な道を歩こうとしたものもいた。彼らの多くは冷厳な歴史的淘汰の過程の波間に非力にも消えてしまったけれどもやむを得ないことであろう、その後はウェーバー的な意味での「日常の途に就く」と云う意味での禁欲的な世俗内禁欲的なあり方を是とするか頑なに消極的な抵抗、沈黙、寡黙の世界を選ぶかであった。ここでも『魔の山』の最後の方で描かれたような、話せば解るような人間と人間を繋ぐ日常性の構図が一言口を開けば自らを傷つけ他者もを傷つけるような言葉の恐ろしさの震えるような予感の中で、より沈黙することの方を選んでしまったと云うこともあったであろう。
 わたしたちは残骸の影を残して遥か沖合まで曳いた干潮の岸辺に佇むように議論することに膿んだ。

 膨大な時間が流れて、この度再読するに及んで、ある意味では『魔の山』と酷似した状況を経験していながら、見事にその読後感が記憶の中から抜け落ちたと云うのはどういうことだろうか、と考えてみた。もちろん、当時も今も、セッテンブリーニやナフタ、あるいはベーレンスやクロソフスキーによって語られるヨーロッパの思想のレベルが立派過ぎるし、わたしたちの学識に対して高すぎるからである。しかしそれだけとも言えないのであって、ある意味では『魔の山』の幻想的であり且つ苛烈な形而上学的な世界は戦後の日本に、ミニ版として一部、あるいはミニミニ版として無数に成立していたし、小説を読むよりも戦後史の過程の中に、直に読んだのである。文学としてではなく戦後史として、わたしたちは読んだのである。読むと云っても、テキストもない、読者もいない、時代遅れの、孤独な、味方のいない、塹壕の中のヘルメットごと額を地面に擦りつけるハンス・カストルプの虫けらの断末魔めいたあがき、徒労と無為と云う言語的に等価の営為ではあったが。