アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鎌田慧『去るも地獄残るも地獄』を読む アリアドネ・アーカイブスより

鎌田慧『去るも地獄残るも地獄』を読む
2014-09-17 09:03:18
テーマ:文学と思想



さあ
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あああああああ


















 鎌田慧の『去るも地獄残るも地獄』は1960年の三井三池闘争の終了から10年後を、そして20年後の消息を訪ねた旅の聴き語りである。
 この書とわたしの関係もまた石牟礼の書物と同様、すれ違った時代経験である。同じ時代を生きた地理的な近さと云うことからすれば水俣以上に近かったとも言えるが、もの心つくころ水俣と同様三井三池もまた伝説や伝聞の世界と化していた。よりアクチュアルであるべき事象を歴史に投影する伝説化の現象は半ばメディアや権力の情報操作であったとも考えるが、三井三池や水俣がかくも孤立化した理由は、同じ時代を生き乍ら、一方は高度成長の世界の彼方に国民の夢を見る世界であり、その違いははなはだしい。この時代を懐古して、例えば映画『三丁目の夕日』のようなノスタルジックな世界を描くことも可能だったのである。むしろ今日、後者が国民の体験として主動的に語られるとき、改めて三井三池とは何か、水俣とは何かと云う問いは遥かに各自の内面の中に追憶にも似た木霊を残すはずである。

 鎌田が描き出そうとするのは二つある。一つは如何にして三井三池の、特殊なともいえる人間管理と搾取の作法が成立したかと云う、歴史的経緯を問うことである。
 それに対する答えは明快で、明治以降広く取り入れられた囚人労働の歴史である。囚人労働と云えば北海道の開拓道路が有名であるが、身近なところにも存在したのである。鎌田によれば炭鉱住宅の子供たちは鎖に繋がれた彼らの行列を何の違和感も感じることなく共存する生活環境に育ったのだともいう。貧しさとは悪いところばかりではなく、平等感や普遍的悲しみを通じての連帯を育む。子供たちがそのような目で行進する囚人たちの姿を眺めたということはその親たちの間にも異邦のものを観じると云う視線はなかったに違いない。
 次に子供たちの眼差しの前を通り過ぎるのは与論の出稼ぎ労働者たちである。彼らは囚人労働が世論に押されて維持し難くなるにしたがって独占資本が編み出した代替手段である。ここで独占資本主義が民を見る眼差しとは、純朴であること、世間を知らないことである。それゆえ三井三池の資本は決して、同じ筑豊の産炭地区を渡り歩く炭鉱夫達を採用しなかったと聴く。知的な意味ではなく、世間知と云う意味での純朴さ、処女のような世間知らずさがターゲットの一つになっていたのだと云う。そして、もう一つは彼らを生んだ本貫地が決して彼らを育てるのに十分な豊かさを持っていない、つまり故郷には帰れないと云う先験的ディアスポラの予感が必要十分の条件としてあったのだろう。
 こうして明治期の囚人たち、彼らの職歴の多彩さから見ても後の世の確信犯的な犯罪者は少なかったに違いない。なぜなら産炭地区の曇りのない子供たちの眼にい映じた彼らの姿は同じ、隔てのない人間として映じたのだから。同様に世論島の者たちも、時の労働者や炭鉱夫とは精神的にも経済的にも差別されながらも生きた。彼らの、搾取と非人間的な取り扱いの歴史をなぞるように、ここに三井三池の労働者たちが歴史上に登場して来るのである。

 三井三池の闘争を今日、過ぎ去った過去として通覧するときまず感じるのは、賃上げの経済闘争であるよりは、職場の安全をめぐる闘争であったこと、そして事故が生じた時に人の命をいくらと、定める人権闘争の側面を持っていたことであろう。その意味では戦後一貫して主導してきた社会党系の経済闘争とは異質な面があったことだろう。
 三井三池の闘争が、また、前近代的な人権闘争とも異なっていたのは、そこに現れた人的労働管理の手法であり、人間を人として見る日本人に生じた眼差しの変化である。日本資本主義は囚人労働をとおして、人間を安価で使い捨て可能な労働力として使いうることを学んだ。つまり人を「もの」としてザッハリッヒに評価する原理、労働の論理を学んだ。この労働観の学習を通じて彼らが次に学んだのは、生かさず殺さず、つまり人間の労務管理に於いては、極端で非人間的な生活環境に追いやれば追いやるほど統制が可能になると云う不思議な人間哲学の原理である。北九州や筑豊の産炭地区が、言い方は悪いが無法松の一生風の純情と風来坊性にあったとするならば、三井三池が最初は島原の油津で、次に大牟田で大々的にやろうとしたのは、大資本の元での集団的な搾取の原理、その労働の哲学原理の完全な貫徹と実現だったのである。
 その意味で、天下に名だたる保守王国の雄たる熊本県の南北で生じた二つの事件は共に大資本の元で生じた出来事として重なりつつも違った面も持っている。石牟礼道子が最終的には物言わぬ民のために地霊や敗残の流謫する神々の言語をも持ち出して抵抗したのに対して、三井三池の大牟田・荒尾は、故郷を失ったもののディアスポラ、一個の思想家も生まない、千数百人それぞれの離散の、それぞれの終わりがそれぞれの死へと収斂するほかはない、縮退する途上の闘いに他ならなかった。

 同書の後半部は、争議後のそれぞれの後日談が広く関西地区にまで拡大されて追補されている。そこで紹介されるのは深く沈黙を守るもの、しかし彼らの間では三井三池は何時しかカナンの地のように憧憬の色あせた虹色に変色しかかっている。しかし三井三池のその後の20年間は彼らの間にも驚くべき変質を生み出し、組合員幹部としての交渉能力やオルグの知識を生かして、非権力の向こう側にと云うか、資本主義の側に於いて、労務畑で活躍する人間像を生み出す。鎌田の筆致は、彼らを描くに際して偏見なく、公平に、それがそれぞれにとっての三井三池闘争の縮退的な後退作戦でもあったことを描いている。単なる権力側への居直りや寝返りではなく、過去の夢を追うことではなく、与えられた環境のなかでもう一度咲いて見ること、評価は分かれるだろうけれども、それも千数百人の、悲哀こもごもの『去るも地獄残るも地獄』の現在だったのである。

 この書がもう一つ明らかにしたのは、三井三池の労務管理の原点でもあった囚人労働の日常について一条の光を差しこませ、言語化することで歴史の闇から解放したことである。鎌田の記述に従えば、そこには驚くべき世界があった。重い鎖に繋がれた彼らにも、二十四時間監視の目を意識せざるを得ない彼らも一旦坑道に入ると一般工と区別されることなく鎖を説かれ自由に動くことが出来たのである。しかもその暗黒の暗闇は権力の及ばない闇の王国、自由の王国であった。そこでは坑道に面して穿たれた洞穴、そこは一個の家庭もどきで、ちゃぶ台から食品に始まって嗜好品に至る衣食住の全てがあったと云う。彼らが娑婆では造れなかった、願い希望することのできなかった家族の原型が、あるいは男同士の夫婦関係のようなものが生じていたと云うのである。
 また、与論の出稼ぎ労働者においても、汗まみれ煤だらけになって男女の見分けがつかなかった世界にも男女の世界は間違いなくあった。労働の合間に取り交わされる卑猥な冗談が告げ知らせるものやはりは、そこで彼らは物言わぬ言語で、わたしたちは人間であると主張していたことである。
 三井三池の労働者たちが闘ったのは、日本の物言わぬ常民の自由への憧れ、その継承戦だったのである。