アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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堀辰夫の『死のかげの谷』と云う経験・2 アリアドネ・アーカイブスより

堀辰夫の『死のかげの谷』と云う経験・2
2014-09-24 12:40:09
テーマ:文学と思想


たとい、死の陰の谷を歩こうとも、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇23)
 


 死の影の谷、死の陰の谷、死のかげの谷、所詮は翻訳の問題でしょうけれども、名指された名辞的な意味合いが強くなるほど、くっきりと、生と死の 明暗を際立たせてくるようです。識者によればヘブライ的な語源では単に、暗闇、とのみ語られたといい、それは言語以前の直接経験という意味合いが強くなるとも言われています。また他方、直接経験とは言語未然ですから言葉の由縁をも語っています。

 堀辰雄がどういう意味合いで、死のかげの谷、と柔らかな表現を使ったのかは知りませんが、小説のほうを最後まで読むと、ほのぼのとした明かりが射してくるような不思議な読後感にとらわれることがあります。もちろんこの前には、山の中腹にある自分の山小屋のともしびをそれとは直ぐには見分けることができずに、気が付いてみれば荒涼とした心象風景が、つまり氷のように凍った孤独さというものの中にある自分自身の姿に気づき、隔絶したあり方に愕然とした思いにとらわれるのですが、同時に漆黒の暗闇を照らす実存のほの明かりとでもいうべき恩寵の照り返しの中にたたずんでいる自分「たち」の立ち姿の影絵をとおして、向こうの谷間を超えて渡ってくる木枯らしの枯れ葉が舞う間歇的な絡みあう音に、「風立ぬ」の由来を語ってこの小説は閉じられているのです 
 『風立ぬ』の魅力は、寂寥が同時に恩寵である、という発見にあります。


 死の明るみはクリスマスの夜にふさわしい華やぎを与えているのですが、死が同時に蒼ざめた相貌を持っていることも変わらない真実なのです。生と死の問題は死を極限とする臨界域の両側においては、違ったふうに見えるのではないでしょうか。その時、言葉はないのです。生死を超えるというよりも、生死未然の領域ですから、――おかしな表現ですが人間も生まれてはいないのです。
 言葉は到来するのです、一陣の風のように。


 人間の実存が生死に分かれる未然未生の状態、ここにはいまだ宗教はありませんでした。言葉も人間もありませんでした。堀辰雄が死者の看取りの中で経験した「死のかげの谷」とはこうしたものだったと思うのです。
 風立ぬ!いまだ目に見ぬ間歇的な予感として吹く風の中から立ち現われてくるものは何だったでしょうか。『風立ぬ』は言葉の起源と発生を描いたものなのでした、――たいへんに平凡な言葉ですが、予感としての祈りという言葉を!

 『風立ぬ』の第二の魅力とは、言葉の発生の現場を描いていることです。しかし、いまだ言葉は予感の中に目覚めることなく震えてありました。言葉は恩寵の中で生まれるはずです、言葉の中で文学が生まれるように、こうした辰雄の内面で営まれた小さな修復作業の連鎖が、いつの日か人間の世界に立ち返らせるのです。




 はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。
 言葉は神と共にあった。
 万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。
ヨハネ福音書