アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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終戦直後の小林秀雄――『私の人生観』1948年と近代絵画論1958年のその十年 アリアドネ・アーカイブスより

終戦直後の小林秀雄――『私の人生観』1948年と近代絵画論1958年のその十年
2014-09-26 21:26:28
テーマ:文学と思想



 小林秀雄に『私の人生観』と云う講演録が残されている。終戦後の余燼が未だ燻っていたころ、有名人・小林秀雄がどのようなスタート台に立っていたかを示す里程標のようなものである。小林と云う文人は不思議な人で、表舞台を歩き続け目立つところで旗を振って「いた」と云う、過去形で思い出されるようなところがある。なにゆえ集合的記憶としては過去形の形を取るかと云うと、気が付くと既に立ち去った後だからである。しかし有名人だから、何か事あると思い出したように意見を求められたりする。その辺の加減と云うか、名人いきに達した立ち振る舞いは天性のものだろう。そこから人生の達人、あるいは人生の教師と云う、本人も望んではいなかった虚像が戦後独り歩きすることになる。本講演会に於いても小林が最初に言い訳しているのはその点である。「私が講演と云うものを望まぬ理由は、非常に簡単でして、それは、講演と云うものの価値をあまり信用できぬからです」。しかし時勢の勢いに押されて、言い換えれば不本意ながら応じるのは、国破れた山河の、自信喪失に陥った国民のために、小林ここにありと云う気迫を示して、期待に応えたいからでもある。こうした応答がなんら小林を読んできた日本の読書会で違和感なく受け入れられるのは、皆が懐いていたイメージそのままの小林を認めることが出来るからである。しかし、一国が破れて未曾有の経験をしたと云うのに、変わらないとは、その変わら無さゆえに本当はそのことを不思議に思う感想もあって良かったはずである。この点は、同時に小林の言語観をも照らし出している。なにゆえ講演会では意を尽くせないと彼は感じるのだろうか。それは小林の言語観が、汝と我と云う近代主義的な枠組みを前提とした言語観に準拠しているからである。汝と我の枠組みを純粋化し、純粋培養的に純化された我の濁りのない透明な我の立場から――すなわち近代主義的な自意識である――世相を「様々な意匠」として分類することから文壇にデビューしたころを考えると、と少しも変わってはいないのである。近代の自意識の煉獄とは、自意識と云う円環の内部に於いて出会う対象は常に同一の自分自身の影に突き当たるほかなく、自分自身の影は決して踏み越えることが出来ないと限界概念云う意味での自閉的な悩みが小林の言語観においても常に付きまとうことになる。変わらなかったのではなく、このような言語観を変えない限り変わりようがなかったのであるし、変わりえないのである。
 小林の戦前戦後を一貫する論理の強靭さは、彼の思考力の半端でない揺るぎなさ、自らの力で考え思考するものの思想の硬度さを意味すると同時に、思考の形式性に殉じる、容易ならぬ頑固さゆえに、ちょうど円周上を走り続ける惑星のように、近代的自意識と云う名の円環の外に抜け出すことが出来ないのである。

 本講演会は、小林も言うように流れるように古今東西の話題が流麗に転調しつつ流麗に展開していく。とりわけ話題が、日本古来の芸能や仏教の知識の開陳に至ると、聴いていて実に気持ちが良い。気持ちの良さは、 日本が敗戦国となったと云う現実すら忘れそうである。そうかそうか、自虐的になる必要は少しもないんだ、日本には西洋にない独自の文化、思想を育んできたのだから。小林自身も、こうした多方面の話題に関しては素人を任じており、議題も専門的ではなく万人向けの口当たりの良いものである。そして後半になると、小林の欠点であるアカデミズムと進歩的文化人の批判が始まる。こうした言説は今読んでみるとより一層、言わずもがなの議論であると云う気がする。誰に向けた議論であったのか。このような話題は、小林が言わなくても他の二流以下の人間でも言えたことであり、自然な時の淘汰作用に任せておれば自然消滅するはずのものであったはずである。小林は江戸っ子だからおだてられると人の良さをみせてしまうのだろう、おっちょこちょい、なのである。

 とはいえ、日本の仏教の特質として語る、「如来の不記」などは今日に於いても啓発的で有効な思想である。「如来の不記」とは、見ることと行うことの間に区別がないことを意味する。どういうことかと云えば、通常は見ることは認識論であり、行うことは実践論であり、近代西洋文明は見ることと行うことを区別することから論理の構築を図って来たからである。科学的思考とは、認識の論理と実践の論理を混同することなく、それぞれの論理の所在を明確にすることで、仮説と検証の間を往復し、往復の振幅を狭め乍ら暫時近似値界に接近していく、その手順。成果と、例えそれが失敗に終わるものであってもその理由や原因を、明確にするこを通じて今後に生かす資産として活用することも出来るのである。日本人が反省することなく最初からやり直す国民性を持つことは既に指摘を受けている。知識が蓄積された言説として生かされないのである。小林の議論は美学としては今日においてもなお聴くべきものを持っているが、聞いていて感じる心地よさの中には、何故敗戦国になったかの理由づけにおいて、科学的な原因追究を諦めさせ、本人の意図に反して当時、自信とあらゆる根拠づけを欠いた国民の目に目隠しのような役割を果たしかねない傾向として利用される可能性があった。その点にについて、明晰な小林なら当時気がついても良かったはずである。もちろん、これは小林だけに帰せられる咎ではなく、当時の時代思潮全体がそうだったのである。天皇の戦争責任をめぐる一連の不可解な言動の中に生まれたばかりの言説が歴史の闇の中に葬られると云うこともあったであろう。小林秀雄が愚かなのではなく、期待された役割をいやと云えな小林がサービス過剰と云うか、小林は才能に比例して人が良すぎるのである。
 あと、カルチャーとテクニックがどのように違うのかとか、真理と真如との違いであるとか、小林流の二項対立型の説明が続いていく。小林の説明は明晰かつ判明であり、文章は平易かつ平明である、誰もが理解できるように書かれているので流石だなと思う。ここではかかる小林流のレトリックと云うか、二項対立的な説明の代表例として、この点を敷衍して論じた宮本武蔵における五輪書の、「観」と「見」の違いについて解説をしてみる。

「武蔵は、見ることについて、観見ふたつの見ようがあるということを言っている。・・・・・立ち合いの際、相手方に目を付ける場合、観の目強く、見の目弱く見るべし、と言っております」

 どういうことかと云うと、「見」とは、敵の動きを、分析的に、知的に合点するめであり、「観」とは、全体の存在を直覚的に見る目であると小林は云う。端的に言えば前者が、西洋の理性の悟性的使用、つまり近代科学の視方であると言いたいのだろう。科学を任意に定義し、それにないものを対置する、論理の遣り繰りの上手の常道である。小林の優秀さからすれば、こんな月並みな議論に関わらなくても良かったはずである。嵩が剣術と達観していた感のある武蔵にしてみれば鑑真や明恵上人と並列して論じられることは本意ではなかっただろう。これも当時ベストセラーであった吉川武蔵の読者層に対するサービス精神というものが背景にあったのだろうか。

 今日から見て、確かに後の世に生きる者がより優位な観点から小林を論評すると云うのは容易なことだろう。潮の流れを利用して上手側に布陣するようなものである。しかし過去に生きた人間の中に、とりわけ小林のような卓越した人物に触れる場合に、陳腐化されて行くものと、古びることなく不易な成果とを腑分けすることは必要なことだろう。小林のモーツァルト論、福沢諭吉論、ドストエフスキー論からフランス象徴主義論、日本の古典や技芸に関するもの、デカルトからベルグソンに至る明晰判明のフランス思想とその言語論の展開、そして特にマネ・セザンヌからピカソに至る近代絵画論は、その多くは未完であり、時代の制約を受けたと云われながらも、対象への肉迫度に於いて卓越したものを感じる。小林が論じた広範などの領域に於いても知識と見識の違いに敵わないなと感じる。文学者の余技などではなく、専門の美術批評家が決して書けない文体がある。セザンヌ論が優れていることは知られている。ゴーギャンゴッホ論については、その特異な小林の思い入れゆえに、生涯を通じて固く口を閉ざして語るつもりがなかった中原中也との思い出が今もなお消えることなく、小林の内面に巣食う亡霊のように不気味に哀しく揺曳していて、意外な小林の本音を聞かされるようで多少複雑な気持ちになった。墓場に持っていくような大事なものを小林さん、簡単に漏らして良いものだろうかと、小林の律義さ誠実さを気の毒に思った、彼の一徹さ純情さが迫って胸が熱くなった。もういいではないですか、小林さん。

 ピカソ論に至って、俄かに小林は、言語の沈黙について語りはじめる。言語に先立つものとは何なのか。「感動に、叫びはあるだろうが、言葉はない」。所詮は自意識と文体の問題だと喝破した小林にして言語以前の問題意識が遂に開けたかの観がある。
 小林はピカソを論じるにあたって、従来の汝と我の自意識の構造では解けない現実に、解けない美的対象に直面したかのようである。ヴォリンガーの感情移入と抽象衝動について改めて読み直したと云う告白もむべなるかなと云う気がする。小林は芸術作品の起源を、アリストテレス風の遊戯や模倣所作ではなく、世界と自我の不一致からくる、直接的経験としての抽象的衝動が奇怪な先史的有機文様や幾何学模様を生んだことを理解する。ギリシアルネサンスに規範を取る自然主義の美学とは、人間と世界が親和的な関係にあった特異な時代の名残であった、と小林は段階的な結論に達して云う。ヴォリンガーの美学に準拠しているとはいえ、わが国における重要な発言であり示唆であったと云える。

 こうして戦後十数年以上たった1958年、小林秀雄はフランス近代絵画を論じることを通して、自意識の裏側にある問題に初めて逢着した、と云うことは言えるだろう。
 自意識の裏側とは、他者や小林が講演や絵画論の中で言及している「物自体」の世界の事でもある。せっかくベルグソンの知覚の拡大やヴィジョンについて有益な示唆を行いながらも、小林の言語観が汝と我の枠組みの閾を「超越論的」に超えることは不可能であった。小林のベルグソン経由の直接経験においては、言語とそれに先立つものとの関係が緊張をもったものとしてとらえられていないのではないか。
 これはどういうことか、ここは妥協できない論点なので、直接経験とは何かについて考えてみよう。
 直接経験とは何者にもとらわれずに無前提に、先入観なく、アポステリオリなあらゆる既存の世界観、価値観を介することなく、あらゆる社会的身分や政治的立場、主義主張に拘束されることなく、自由に個人の直覚的感性を信じて、感動そのものとして見る、感じる、体得すると云うことであるが、小林の場合はどうもそこが思想の底で終着点の如き観を呈し、どこか禅僧の達観めいた感じを与えている。現象学フッサールの場合もそうらしいのであるが、こちらは現象学的還元なり純粋意識と云う呼び方をしているようで、こちらでも還元のあとに残された現象学的残余なり原初的所与は、やはり動態的なもの、力動的なものとは必ずしも捉えられていないようである。哲学を専門とするものではないので断言めいたことは差し控える。
 さて、――
 他方、直接経験の立場とは異なっている、あるいは対その対極にあるとも考えられるロゴス中心主義の代表的なもの、――新約聖書の中でも最もキリスト教における言語観を表明していると解されるヨハネによる福音書の場合はどうなのだろうか、神と言葉の起源と誕生を同時性に於いてとらえるキリスト教的言語観に於いてはこの点、どうなっているのだろうか、周知のように同福音書はこのように書きはじめる、――「はじめに言葉ありき、言葉は神とともにあり、言葉は神であった」――原始キリスト教の言語観に於いては――これは通常ロゴス中心主義と要約されることが多いのだが――直接経験なり純粋意識の成立が同時に言語のビッグバンのような天地創造を思わせる、宇宙論的炸裂を誘引するような動的な緊張感に満ちている。
 原始キリスト教に於いても全ての先入観なり二義的なものの排除については同様であり、キリスト者的還元の果てに得られる宗教的な境地や境位、それもまた別様な意味での歴史的なレベルにおける直接経験なり現象学的還元であることは間違いないのだが、それがキリスト教の場合は近代思想に於いて意味されるような単なる終着点ではなくて、言語が臨界的に開始する始原的出発点でもあると云う先験的同時性、言語論的二義性、両価性がある。小林をして、最終的にはキリスト者に近づき得なかった点についても様々な理由が想像され言及されているらしいのだが、一つには直接経験を動態的なものとは読み込めなかった論理展開の弱さがあったのかもしれない。小林を含むヨーロッパ近現代思想が到達点と見たものを、既に原始キリスト教は同時性に於いて到達点であるとともに同時に出発点でもありうると云う動態的かつ複眼的な見方を既に確立していたようなのである。
 しかしながら原始キリスト教が提起したこの問題は、その後の経緯を考えると単なるドグマとしてのロゴス中心主義に変質して行ったスコラ化の過程――悪名高い!――とも考えられ、直接的経験の契機は失われて行ったかのようである。むしろ契機は異端的な神秘思想やプロテスタントの静寂主義などに流れ込み地下思想として潜伏していったのかもしれない、あくまで推測である。これらも聖書解釈を専門とするものではないので断言は差し控える。
 さて、小林の問題に立ち返ると、彼は自らの論理の弱さを違ったふうに達観して、反って超越の手前で禁欲し、踏みとどまり、自制を保つことがこそ、それが形而上学無き近代主義のセオリーであり、それがまた江戸っ子小林の美意識でもあり、都会人としての矜持である、と云うように考えたのである。超越に対しては結界を引き禁欲する、それが彼にとっての、そもそもの近代が意味するところの原初的意味であったのだから。自意識とは、小林にとって超克を目指しながらも、絶えず自らの影として現れる限界概念、リルケにとっての蝸牛の殻のようなものであった。
 小林のアカデミズムや論理や概念についての安易すぎる観念論批判もまた後続する批評家たち、江藤淳磯田光一吉本隆明らによって一部継承されるのだが、小林には彼らにある暗さがない。資質と云うものだろう。江戸っ子の気質と云うものだろう。小林は結局最後まで観念と概念を区別できていないようである。概念と観念の違いは、――例えば自意識と云う名の円筒状のスクリーン上に投影される自分自身の影、それは観念ではなく、それが当人にとって任意に変更したり着せ替え可能なものではなく、実感としてこれ以外にないと云うありありとしたリアリティの感覚として現前されるものである限りにおいて、観念と呼ぶことはできないであろう。それを概念と呼ぶことに対して抵抗があるとしても、少なくともそれは観念ではない。
 また先に言及した、ヨハネによる福音書の「はじめに言葉ありき、言葉は神とともにあり、言葉は神であった」で語りはじめられる「言葉」や「神」、これもまた観念ではなく概念であると云うことが出来るであろう。概念と観念の違いが分からないから日本人の宗教批判は何時も独りよがりの論理にならざるを得ないのである――いわゆるロゴス中心主義、好むと好まざるとに関わらず、わたしたちが国破れたのはそのように自在に言葉や概念を操る文化・文明に対してであった。敵の正体を正しくとらえずに何が戦が出来ようか。わたしたちの言霊は折口が言うように、神敗れたもうたのである。わたしたちは圧倒的な物量や科学兵器の格段の優秀さ、精神面に於いては一部の時代遅れの封建的な論理や神がかりの狂信が帰結せずにはおかなかった無知やアナクロ二ズムゆえに敗れた訳ではないのである。それを小林だけの問題であるとするわたしの論旨の組み立て方は公平さを欠くものであろうけれども。
 論理や概念がそれ自体の即自的な自体性を持ち、実在化された言語経験として論じられると云う経験は文学史に於いても、その後のわが国の戦後史に於いても遂に国民体験としては現れることはなかった(アカデミズムの商品棚にはあると思います)。



小林秀雄のような巨大にして偉大な対象となると、その内容的なものについて論じようとするとき、その広範な領域の一部に於いてすら語ることの困難さを感じる。双方の見識・学識、教養がまるで違いすぎるのである。内容ではなく、単に形式面についてであるならば、つまり語られる対象が人生観や世界観のような一般向けのものを小林が論じる局面に限定するならば、あるいは何事かを述べることが出来るかもしれない。本文にも書いたように、神格化された小林秀雄像の中に、今日に於いて有意なものと、陳腐化していくものを腑分けしてみるという狙いもあった。
 上記のような理由で、このような短文ですら悪戦苦闘する始末で、一度書いた文章を何度も書き直したことをお詫びいたします。――結論は、小林秀雄は十分論ずるに堪える、と云うことである。