アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画、トルストイの『終着駅』 アリアドネ・アーカイブスより

映画、トルストイの『終着駅』
2014-10-22 10:39:36
テーマ:映画と演劇


http://usagi.be/coco/_image/79a736bec69610679fd0d6d43c2d9fec.jpg

悪妻、について、例えば次のような記述がWikipediaにおいて参照することができる。

いわゆる「世界三大悪妻」(世界三大一覧)とはソクラテスの妻クサンティッペ[1]、モーツァルトの妻コンスタンツェ・モーツァルト#悪妻説[2]、レフ・トルストイの妻のソフィア・アンドレエヴナ[3]ということになっている。

 この映画は、その三番目のトルストイの晩年をその妻との係りを中心に描いたものである。
 そうした先入見があるせいで、見る前からあるイメージが抱かれ、見たような気持になってしまう、そのような映画かと思ったが、監督の演出によるものか俳優の演技によるものか、最初のシーンを見ただけで少し違うな、と云う気持ちになった。監督はマイケル・ホフマンと云う人、トルストイの妻を演じたのはヘレン・ミレントルストイを演じたのはかの『サウンドオブミュージック』の大佐役、クリストファー・プラマーである。

 まあ、この映画を大まかに言えば、確かに、天才を理解しない妻の物語と言っても良いだろう。しかし妻にも言い分はある。その言い分を、その天才に対する言い訳を、貫録十分のヘレン・ミレンが堂々と演じるので、可哀想であるというよりは、威厳と孤愁あたりをはらう王者の風格すら漂わせた仕上がりになっていた。
 ヘレン・ミレンの演じるトルストイの妻は、妻の嘆きをまるで王者の嘆きでもあるかのように演じた。晩年のトルストイが何を考え何を思っていたか、天才であることのゆえに凡人には分かりかねることである。自らの貴族としての広大な農地を開放し自らの著作権から上がる膨大な著作料を名もなき民衆のために役立てる、立派なことであると思う。これに対する、トルストイ家の権利を主張する妻には、どうしても不利な形勢と云うか、不利な構図が最初から仕組まれていく。
 物語は、トルストイ協会――と云うものが当時すでにあったらしい――に雇われた青年秘書が、トルストイ家に深く入り込むことでトルストイの妻に対する印象を次第に訂正していくと云う形で進んでいく。最初から協会のおえらさんから、トルストイの妻をこそ監視しかつ詳細を報告して欲しいと云われながら、やがて、ある意味ではトルストイと違った意味での無私な女性の高貴さに気づき、他方では自らの雇われた秘書と云う微小で微弱な役割のゆえに、思うこともできないもどかしさを描いている。
 こう云うことなのである、――トルストイは生前からある種の神格化を受けていた、その張本人が彼に群がるエピゴーネンたちであり、その信徒たちである。トルストイの妻は、ちょうど西郷隆盛の妻が上野の銅像を見て、これはわが夫ではないと云い放ったように、聖人ではなく、人間としてのトルストイをこそ回復したかったのである。
 トルストイが聖人になる前の、『戦争と平和』を読み合せ読み慣らしたころの幸せな夫妻の思い出が語られる。戦争と平和の物語は妻の口を通してこそ音声としてこの世に初めて語られたのである。この映画が提起しているのは、トルストイの構想するような人間の普遍的なあり方の前に、妻として、女として生きた妻の人間性は裁断されるべきであったか、と云う問いなのである。

 語り手の青年の秘書は、トルストイの妻の立派さ、気高さに共感し感応されて行くに従って、協会の人々からは心理的には次第に遠ざかっていく。しかし、トルストイの妻の苦境や寂寥、孤立を知りながらも自分としては何もしてあげることが出来ない。しかも、偉大なるロシア文学の文豪レフ・トルストイは比彼の眼前にあって比類なき立派な人格のままなのであった。
 トルストイの長女は、よくありがちであることだが、長女であるがゆえに父親に自分を同一化し、やや狂信的な協会のグループの派手な旗指物とすら成り得ている。最愛の娘がレフ・トルストイに肩入れしかつ晩年の聖人物語を広告塔のように代弁する限りにおいて、協会側の恣意とは言わせないと云う構図が世評高く出来上がる。終いには、トルストイの妻は悪妻であることを超えて気が違ったのではないかとまで言われるようになる。こうして病気と判定された妻は隔離され、夫婦が離れ離れで臨終の場にも出会わせるこのが出来ないと云う信じがたいような冷酷な場面が演出され仕組まれていく。一人の人間を狂気の瀬戸際まで追い込んでいく組織の暴力の緻密な計算された冷徹さは怖ろしいほどである。

 その妻が最後の最後まで面会を阻まれたのが、首都からほど遠からぬある田舎町の侘しげな駅舎と、臨終にあるトルストイの床をめぐる、映画が描く最後の数日間の物語なのである。その普遍と固有なるものとをめぐるドラマが熾烈に且つ残酷に展開されたのが、すなわちトルストイの終着駅と云う映画なのである。