アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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旅の空にみた死の巫女、死の女神の面影 アリアドネ・アーカイブスより

旅の空にみた死の巫女、死の女神の面影
2018-03-11 13:07:47
テーマ:文学と思想

森 有正(もり ありまさ、1911年11月30日 - 1976年10月18日)は、日本の哲学者、フランス文学者。
須賀 敦子(すが あつこ、1929年1月19日(戸籍上は2月1日)[1] - 1998年3月20日)は、日本のイタリア文学者、エッセイスト、上智大学教授。
フランソワーズ・サガン(Françoise Sagan、1935年6月21日 - 2004年9月24日)は、フランスの小説家。

 

ざっと思いつくまま挙げただけでも、最近言及した方々、共通点は様々ながら、六十九歳で亡くなられたことだろう。何れの方々の死も、それぞれに違った生涯の軌跡はあったにせよ、早すぎた死と云う、唐突感が感じられた。死は終結、と云うよりも、情感の余韻が黄昏に残された頼りない残照を追う曳航の軌跡のように尾鰭を幻想のなかに曳き、薔薇色に変色した水平線は何年経ってもわたくしたちを置き去りにしたまま沈黙を保っているかのようである。
 実を言うと、昨年来、体調の峠を強く感じ、不吉な69と云う、非対称的対称のアラビア数字にこだわった。重くのしかかっていた。
 潮の変わり目というものはあるもので、逆らわず、流されていくしかあるまいと観念してはいるが、ちょうど六十の歳が大きな変化の歳であったことを思うと、まだまだいけそうだ、頑張ってみようと云うふうに、理性は健気にも思い直してみようともする。
 2015年の9月、政治の死と云うものを久しぶりに経験した。昔取った杵柄とでもいうように経験した。傍観者としての経験がのちにボディーフローのように効いてくるとは思いもかけぬことではあった。例の参金曜日ごとの議事堂前国会デモで有名になった安保関係諸法案反対闘争、旅人としてのわたくしは通りすがりに見過ごしてはおけないと思っただけで、それほど入れあげていたわけではなかった。その後、わたくしの暮らしにも精神にも何ら変化はなかった。前線で闘った若者たちに申し訳ないほどであった。呑気なと云われそうだが、二月後にはイタリアの陽光の日差しのなかを、バスツァーの車窓に凭れ掛かるようにしてあった。回廊を巡るダビンチやボッティチェリの女たちの面影が心に幾重にも重なって過ぎた。それらに描かれたルネサンス期の女神のイメージはやがて、ローマ時代に制作された復刻ギリシアの女神像や巫女像を通して、こころの内奥をアルカイックスマイルとラピスラズリの色に染め上げた。帰国して整理してこの感情を分析すると、まさに政治の死と云うものが、死体のように折り重なり、遷移し、発酵し、天上へと転位転生されて、わたくしの内面にも、変わらぬ形での死が訪れたことを理解した。よそ事の思っていたと思われた政治の風景も、意外と重たく、予想以上にわたくし自身を傷つけていて、そのことの方に却って驚いたものである。こんな形での告知もあるものだなと思った。
 つまり、イタリアの限りなく透明に輝く光のなかで出会ったのは、不吉にも、死と運命の女神だったのである!
 わたくしは自問自答した。これは引き連れられて冥界に降ると云う符号なのだろうか、と。あるいは、いまだに生きながらえていることを鑑みると、分からないことだらけなのであるが、いま少し生きなさいと云う諭しであったのだろうか、とも。
 わたくしが遭遇した死のイメージというものは、今までに様々に文献に、あるいは人づてに語られ、書かれてきた死の、死が持つ陰惨で冷酷なイメージとはまったく異なっていた。死が、これほどまでにもアルカイックな優しさに満ち溢れ、抱擁するような蠱惑的で誘惑的な恍惚感のなかで、透明な陽光の無限純化の果てにラピスラズリに輝いていたことを初めて理解した。
 死は、厭うべきものなどではなかった。ただ、運命の女神は、いま少し時間をくださったのであろうか。今日を入れて七十歳になるまであと九日である。

「死は生涯の果てにあるものではなく、一つの存在が、存在そのものに純化された時、いつもそこにあるのだ。」(森有正『城門のかたわらにて』)