アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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小坂井澄著『お告げのマリア』 アリアドネ・アーカイブスより

小坂井澄著『お告げのマリア』
2014-11-02 11:10:45
テーマ:宗教と哲学



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大野教会 長崎外目にて

 お告げのマリアとは有名な宗教絵画の主題を言うと同時にここでは長崎にある女子修道会の名称を言っている。江戸時代を通じて潜伏し秘匿された生き方をした隠れキリシタンの人々が、明治初年のプチジャン神父らによる大浦天主堂の、わが国歴史上数百年ぶりの聖堂建設を機縁に、歴史のベールの中からおずおずと地上に姿を現したとき、主としてその信仰の土着的習合のあり方の中から生まれたのが世界でも特異で特殊なこの修道会のあり方である。

 もちろん、この修道会を含む長崎の人々が辿った苦難の歴史は、聖堂建設と奇跡的な潜伏キリシタンの生存と云うトピックとして、ローマ法王庁と世界のキリスト教世界に与えた感激と共感にも関わらず、史上有名な長崎四番崩れ以降の過酷な弾圧の歴史によっても知られているし、それ以上に彼らの信仰の中心でもあった浦上の原爆投下と云う出来事によって壊滅的な打撃を与えられると云う試練によっても、知られている。


わたしが持っている小坂井氏の本はハードカバーの初版本で1980年の五月と刻印されている。このころ、長崎外目や五島、平戸のあたりを好んで旅行していたので、その時読んだものであろう。かって読んだと云う記憶だけがあって、フランス旅行の最終日にパリの宿で長崎から来たと云う修道女の一行と擦れ違った時に、久しぶりに思い出したと云うわけである。個々の内容は完全に忘れていた。

 今回読み返して感じたのは、江戸三百年に渡る弾圧と深く秘匿され、偽装されてまで生き延びた不屈の信仰と、文明開化の世に弾圧を経験したこと、そして現代文明の悪行の極北ともいえる原爆投下の現実を経験し、信仰の次元で受け止めたことであろう。ユダヤ人の経験を除けば、これだけの、受難と云う言葉も及ばないような経験をした人々の群れは無いに違いない。むしろ宗教的世界に生きる魂の純一さと、生きる世界の狭さゆえに、かえって事もなげに顕わにされた現代史の過酷さに堪えていると云う信仰の姿がかえってあわれであった。あわれであるとは、可哀想だと云う意味ではなくて、あっぱれであると云う意味で使っているのである。彼女たちには、よくある聖人伝にあるような、信仰を前にしてのあれかこれかの実存的な決断があるわけではなく、自分たちの貧しい生活の中から、とりわけ利発的な子供が選ばれてあるという理由で、修道女たることを地域社会に於ける栄光として受け止めるのである。小坂井氏の記述を読みながら、彼女たちの生きた時代が同時にフランス・イタリアを中心としたカソリックの改革の時期と同時期、世界的に労働司祭の考え方や信条が高まりつつある時代であったことを思うと、狭いなりの信仰者の清貧の世界がその狭さを突き抜けて世界的同時性へと突き抜ける、東西の文明的差異を超えた思想が持つ底力、思想の普遍性と云うものを改めて感じた。

 実を言うと小坂井氏の著作によっても、同様の事を描いた遠藤周作の『女の一生』においても、主題的には描かれているわけではなかった、明治初期から、主として長崎に於いて十字架の会の立ち上げの頃からマリアのお告げの会に立ち会ったフランス人の修道士たちの群像に興味を抱いた。興味と云うよりも、この人たちはもしかして、途方もない夢を抱いて日本に帰化した一団の人々の群像であったのではないのだろうか。ド・ロ神父だけが今日では有名であるが、彼らのうちの何人かは貴族の出身である。彼らの持つ資産が少なからぬ威力を発揮したことは言うまでもない。当時のローマ教会が日本布教を特別に重視していたとも考えられるし、それ以上に彼らフランス人の群像の中に、断片的ではあれ、特徴的なものが読み取られるような気がする。

 これから述べることは想像、何の根拠もないことなのであるが、社会的な相としてのキリスト教組織と社会的基盤の崩壊と云う末期豊臣政権後に生じた事態の中で信徒が選ばなければならなかった三つの道、一つは殉教、二つ目は棄教、三つめは海外追放と云う事態の中で、それらといずれも違った形で成立したのは隠れキリシタンのあり方、目に見えぬ教会、不可視のキリスト教的信仰のあり方であった。

 このあり方の中から、現象的には労働しつつ神への愛に自らを奉げると云う「女部屋」の信仰が立ちあがってくる。三百年にも渡る禁教と弾圧の歴史の果てに、おずおずとではあれ歴史上死滅したと思われていた彼らに十字架の影を見出したプチジャン神父との出会いは偶然的なものだけだっただろうか。一方では圧倒的な宗教を禁ずる権力の前に秘匿されて生きなければならないあり方から、不可視の十字架をマリア観音の彼方に幻想として観ると云うあり方の中で、旧約聖書以来の、偶像崇拝否定のキリスト教の始原性が甦りつつあったのではないのか。
 他方、プチジャン神父をはじめとするフランス人の神父たちのグループに於いては、ジャンセニズムを踏まえた宗教者としてのあり方の伝統、継承される神意と精神史、と云うものがあって、ここに両者とも相まって、奇跡とでもいえそうな信仰の和音と倍音が大浦から浦上に至る長崎の盆地に密やかに響き渡ったのではあるまいか、最近はそんなことを考えているのである。

 労働することと信仰に生きることに共通する同一性についてはマックス・ウェーバーの有名な著作などにも記述があって珍しいことではないだろう。労働の内部に信仰の形を読むとは、神が単なるプラトンのようなイデア的存在であるのか、それとも現実的世界と云う人間的形相を濾過することを通して、その都度ごとに存在として現前すると云うものの考え方であるのか否かと云う、スコラ哲学以来の論争の歴史的経緯と帰結を語る挿話の、現代的再生であったことも間違いないだろう。彼女たちの生き方は貧しさの中から生まれた女の世界の狭さというようなものではなく、長崎の海が万国に繋がっていたように広い世界史のレベルに繋がっていたのである。その狭さとは単なる狭隘さではなく、キリスト教の教義的理解にとっては、清貧の思想、全てを割り算的に引き算的に切り捨てていく思想、心身脱落のキリスト教的離脱の思想、その極限が生んだ、余りにも日本的な清貧の思想が生んだキリスト教的な理解のあり方であったのではなかろうか。

 最後に、プチジャン神父をはじめとするフランスの青年神父たちに共通する要素は、清貧や「女部屋」類する思想が、つまり長崎のキリスト教土着の信者たちと遭遇することによって彼らの内面に目覚めた清貧の思想や物神崇拝否定の信仰が、個人的な信条や信仰のレベルではなかった事である。彼らは相次いで布教の苛酷さや過剰労働の果てに信徒とともに信徒が生き死にする場所へと、つまり日本の土へと帰化していくのだが、中断されることなく次から次へと、彼らの世代間に何の申し合わせもなされることなく、以心伝心のように女部屋――労働と信仰の一元化された生けるキリストの考え方は受け継がれていたのである。

 結論めいたことを言えばこうなるであろう、――江戸期を通じての隠れキリシタン制度の苛酷な現実や長崎の女部屋の思想は貧しさゆえのそのれなりの理由があるものであった。そこでは威圧的な権力とイデオロギーのために十字架は秘匿されなければならなかった。つまり十字架は不可視のものとならなければならなかった。
 同時に農業を基本とする幕藩体制は需要と供給のバランスと云う危うい現状維持のバランスの上に乗っかった政治体制であり、その中でも人口のバランスは種々の非合理的な手段、――その中のひとつが、間引きと云われる習慣なり慣習であるが、「合理的な手段」に頼らなければならなかった。大浦での出来事以降、カソリック教会に復帰した教徒にとってかかる悪習は教義上の問題、信仰上の問題でもあった。ここから労働と信仰の一体化の信仰の中から捨て子の保育と独特の里親制度が生まれてきた。
 他方、労働と信仰の一元化は、フランスの布教の理想に燃える青年司祭たちにとっては、可視的な象徴に頼らない偶像崇拝の否定はジャンセニズム以降のフランスに伏流する教義上の生ける実践であるように思われた。彼らは長崎の現実の中から直ちに早急に解決されなければならない物質的なり教義上の課題の解決を、彼らの宗教上の課題に一致させたのである。その具体性が、表現となり人の口にのぼれば、例えば――「女部屋」、と云う表現を取ったのである。

日本のキリスト教徒の固有な問題はキリスト教が知識人の信条として、上流階級の信仰として受容されてきたと云う歴史がある。この経緯事態について言うならばなんら非難されるべきことはないのだが、しかし信仰の動機を主意主義的な決断、実存のあれかこれか、個人の宗教の側面に引き付けて理解してきた側面は否定できないであろう。
 そうした側面から見た時、長崎で起きた出来事、つまり労働と信仰の中に内面的な繋がりをみ、それがアブラハムとモーゼ以来の偶像崇拝の否定の、生ける実践であったことは日本人の目にはあるいは見えにくいのかもしれない。例えば精神的なフランス帰化人・森有正遠藤周作の文学のように、ここではあくまで日本人の、個的な実存のあれかこれかが問題になっているのである。そこから出てくる結論は、日本人とは倫理的に一貫性のない二等国民であると云う不毛な結論が出てくるに過ぎない(日本語とフランス語の言語観からくる実在との照応あり方をめぐる考察は鋭い)。ところが世紀末に来日した一群のフランスの青年司祭たちの目に映じたのは、文明開化の時代に取り残された貧困と日本の現実的な課題の中に彼らの宗教的信条と理想の一致を、生ける象徴、見ざるイコンとして見出すことであった。キリスト教の教義やその組織的あり方が問題になる場合でも、長崎女部屋と彼女たちを慈しみつつ育てたフランス司教団の真摯さは否定できないであろう。
 名もなき異国の風土と化したフランス人青年神父たちの記憶よ、永遠に!





※ パリの宿りでのお告げのマリアの会の円陣を組む修道女たちとの偶然の、はかないすれ違いについては下記の記事にも書いています、
http://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/26064797.html