アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ハムレット』と『罪と罰』、その深層心理、悲劇論か神話論か? アリアドネ・アーカイブスより

ハムレット』と『罪と罰』、その深層心理、悲劇論か神話論か? アリアドネアーカイブスより
2014-11-14 17:56:41
テーマ:文学と思想



 シェイクスピアの四大悲劇は何れもやりきれないほどに暗い。その無惨さは『リア王』において、哀切さは『オセロ』において、不気味さは『マクベス』において。しかし『ハムレット』の暗さとは何だろうか。

 『ハムレット』劇を表面から読み解けば、よくある皇位簒奪の物語である。兄の王位を弟が狙い、王妃と家臣の了解のもとに王位の交代が承認される。単純な勧善懲悪の復讐劇とも見れるけれども、王妃が見せる鷹揚な態度や家臣団の結束力からすれば、クーデターの要素があったのかなかったのか、はなはだ曖昧である。
忠孝の国・中国においても儒学が確立するまでは、無能な王は天に代わって入れ替えることが出来る、禅定などと云う便利な言葉もあった。
 シェイクスピアが勧善懲悪の歴史劇として構想しなかったのは確かだろう。

 しかし作者は一方では、劇中劇ともいえる王の毒殺の場面を劇中に嵌めこむことによって、王位簒奪の無惨な毒殺劇を暗示する。しかもこの方面の読み方を強調するやり方は一貫していて、有名な冒頭の、亡くなった父王の亡霊が出るらしい、と云う噂と、その噂が気になってノイローゼ気味になり、見極めずにはおれなくなって、唯一の忠臣ポレイショーと図って寝ずの番をし、ついに父の幻と遭遇する冒頭の不気味な場面より明らかである。

 しかし、そう、単純に日本の時代劇風に観るにしては、あれほど敬愛し敬慕すると本人が劇中で度々主張しているにも関わらず、ハムレットの父王に対する反応は不自然である。
 何となれば、彼がまず感じるのは、亡き父への懐かしさ、哀惜、そして非業の死を遂げたものへの慟哭の情であるよりは、真実の父の亡霊であるのか否か、魔物であるか否か、と云うはなはだ不可解な疑問なのである。

 亡霊となって対面する亡き父親がハムレットに示す態度も、およそ肉親としての情を欠いたもので、極めて無機的である。――つまり父王の亡霊が云うには、自分を亡き者にした仇を打ってほしい、それを誓ってほしいと云う、余りにも利己的で強引な遺言の強要なのである。さればハムレットとて、余りにも肉親としての情緒的なものを欠いた主張に、悪霊ではないかとの疑いを抱くのである。

 こうしたハムレットの懐疑の上に、折よく城下を訪れた旅芸人の一団を利用したハムレットの劇中劇が仕組まれる。つまりハムレットが父王の亡霊から委託され遺言された通りの場面を舞台上に再現し、今は王となっている叔父と母親のカップルにの反応を見ようと云うのである。その結果、ひどく動揺すれば、それは証拠の一端にはなるであろうと彼は考える。その結果はどうであったか、――

 劇中劇は宮廷の無慮と徒然を慰める格好の娯楽として大々的に始められるのだが、劇が進行するにつれて新王と王妃はハムレットの暗示と企みに気かされることになる。とりわけ叔父の動揺は大きく、気分が悪くなって中途で退出する仕儀となる。それを見たハムレットは確信に至った、と信ずる。
 それにしてもこれしきの子供だましの悪巧みに過剰な反応を示すとは、クローディアスとは余程の善人なのだろう。その善人ぶりは、自らの罪業深き身を反省したのか――ハムレットの色眼鏡にはそのようにしか見えない――祭壇に籠って一人一心に祈る、その祈りのひたむきさ、無防備さに、復讐に燃えるハムレットの激情を躊躇させる。
 
 しかし果たして、真実はどうなのか?物事は主観の願望が観たいと念ずる方に見えがちなものであるが、とりわけかくも人工的に仕組まれた劇中劇に於いては、ハムレットの主観に添って、そのように見えてしまうのではなかろうか。ハムレットが思うのもその点なのである。彼は感受性に優れ、頭脳明晰な青年として設定されているので、自らの主観的な見え方、主観性の偏りと云うことについて、それほど楽観的でも直情的であるようにも描かれてはいない。それがあれかこれか、つまり、有名な、生きるべきか死すべきか、の問いの意味するところである。何も哲学的にものを考えているのではなくて、具体性と幻想性の前で進退が極まっているのである。その根底には、幻想が幻想としての意味が不確定になるに従って、現実もまた幻想化し、幻想と現実が逆転すると云う事態が生じている。

 この幻想と現実が逆転する過程で、あれほど優柔不断で心優しき青年であったはずの彼が、単に盗み聞きをされたという理由だけで善良な老臣のボローニアスを一撃のもとに屠り、また二重スパイであった嫌疑で二人の学友の命も血祭りにあげるのである。
 ハムレットの動作を見ていると、これは成り行き上のとっさの偶然の悲劇と云う風にも見えるが、惨劇があったのちの、彼の淡々とした無反省で無表情な態度は、人間としてのハムレット人間性を疑わしむるものがある。その代表例が無垢な乙女であるオフィーリアに向けた無情な仕打ちであり、母親への実の息子とも思えない残酷な仕打ちであろう。

 よくよく主要な登場人物とその条件等を考えていただきたい。亡き王は遺憾ながらこれでは国が持たないと家臣団に擁立された弟王によって何らかの不審な死を遂げたのかもしれない。現王妃と弟王が結びつくことは色恋沙汰ではなく、国を保つための国家意思でもあり家臣の願いでもある。
 また、王妃も弟王クローディアスも既に若くはなく、彼らの間に子孫を生み出すことは可能なことだったろうか。クローディアスの後にはハムレットをと云うのが王妃の唯一の願いでもあったようにもみえる。クローディアスと王妃の関係が仲睦まじいことからしても、彼の即位にはそうした含みがあると云うのが歴史を読む場合の常識だろう。
 つまりこのまま時を経れば王位は再びハムレットに巡って来るのである。父と子と云う関係を抜きにすれば、歴史劇としては不自然なことは何もない。何もないところに、殊更に問題を見ようとする青年のノイローゼが生んだ幻想、幻想が生んだ悲劇と云う気がしないでもない。
 ともあれ、――

 ハムレットの悲劇は、通常の心理学や深層心理を用いては解けないのである。フロイド流の心理学に於いては、確かにフロイドも恰好の教材として利用しているし言及もしている。それは科学者フロイドの言う通り九分九厘まで、愛情をめぐる性的な感情教育の発達の上に、口唇期、肛門期、性器期に発達障害がそれぞれの歪を、一見完成型にあると見える青年ハムレットの性格を裏側から規定する無意識、深層心理として働いているという説明の仕方はなるほどと納得させる。しかしハムレットの悲劇は、遥か古典古代ギリシアの『オデッセア』の引き写しであり、父親が出征中守りがたい母親の操と、父性回復のもとに行われた粛清劇をなぞりつつある段階から、悲劇と云うよりも神話に近づくのである。

 つまり簒奪された父性と王位簒奪に加担した母親とその一党の皆殺し劇は、それ自体をみれば陰惨極まりない悲劇であるが、これを神話として観る場合は、祭儀と犠牲の供犠との関係に似ているのである。
 周知のようにユングはここから、フロイドの無意識と潜在心理学の知識を敷衍しながら、普遍的無意識、集合的な無意識の概念を立ち上げた。つまりある極限化された状況においては、神話的な人物配置、神話的な人物造形、神話的な状況配置が再現されると云うのである。ユングはここに人類の無意識的な記憶の原型を見たと信じた。

 しかし一回性を帯びた「ここ」「この時」の具体的時間の中に、それが神話性を帯びると云うことは、人間の行動類型に普遍性の証を見ると云うよりも、現実を現実として成り立たせているリアリティの根拠がうしなわれることとパラレルなのではあるまいか。
 人間の行動性が原型性に近づくとは、人間が普遍的存在である証なのではなく、ここ、この時、において成立している人間としての実存が破壊されると云うことではないのか、そんなふうに感じたのである。

 ドストエフスキーの『罪と罰』もまた、理由なき殺人である。高邁な理想の比べて虫けらのように賤しく醜い老婆の存在は取るに足らないものであるのか、と、一見哲学的に問うているようにも見える、殺人の理由を問うているのようにもみえる。
 しかし『罪と罰』が問うているのは、人は理念や理想のために殺人を起こしうると云う思想である。老婆だけではなく、無関係な偶然に訪ねてきた老婆の妹をも撲殺することでラスコリーニコフは予想外の心理的な打撃を受けたように描いてるが、むしろ激情することなく理性的に殺人を執行しうると云う彼固有の性格にこそ問題があったのではなかろうか、ちょうどハムレットがそうであったように。