アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

ウィリアム・ジェイムズの『プラグマティスム』 アリアドネ・アーカイブスより

ウィリアム・ジェイムズの『プラグマティスム』
2015-01-17 22:57:30
テーマ:宗教と哲学


 平凡平易な哲学は、時に、凡庸な人生がある種の才能ある人間にとって、局部的精神的疾患として現れることがあるように、精神の不調をもたらすこともあるのではないか、ということを、ウィリアム・ジェイムズの場合を通して考えてみたい。


 





1
 プラグマティスムと云うアメリカ流の考え方を少し見てみたいと考えるようになったのは、提唱者ウィリアム・ジェイムズが、『ある貴婦人の肖像』や『ねじの回転』、『アメリカ人』、晩年の三部作『大使たち』『鳩の翼』『黄金の盃』などで知られる、近代アメリカの最も個性的で偉大なる文学者ヘンリー・ジェイムズの実兄にあたるからであった。
 プラグマティスムそのものはウィリアムの本を読んでみて、啓発されることはあっても、通常の私たちの常識とか実務上の見識や信念と大きく乖離することはないため、特にこれを哲学的な学説として読む、と云う魅力も必要も感じないほどである。
 プラグマティスムとは何かと問うことは、余りにも当たり前でありすぎて、むしろ何でないかと書く方が当を得ているように思われる。第一に概念や観念に対する具体的事実の優先と云う指針は、経験論を思い出させる。違うのは、イギリス経験論に限らず経験論と称するものが示す観念論や形而上学的なものの考え方に対する全面的な反感が彼にはないことだろう。宗教的なものの考え方にすら親和的であって、神が存在しようがしまいが、神と云う観念が現世にあって一定量の慰藉と云うものを人々に与えるものであるならば有益でもあるし、処世としての効用主義的見地からプラグマティックに考える場合は、経験と云う磁場で何らかの有価的機能を発揮する概念なり観念は、そのかぎりにおいて一種の現金価値を有するのであり、単に心情的なり抽象的に決めつける排除の論理を働かせてはならない、と云うのである。
 真理とは観念や概念そのものの所謂自体的存在ではなく、その働きなり機能なりが経験と云う磁場でいかなる効能、如何なる効果を発揮するかにあるのだから、古来有難がってきた古典哲学上の難問は全て無効と云うことになる。神が存在するか否か、真理を知り得るか否かと云う哲学的な議論とされるものは、そのいずれかを採用することで経験の世界に如何なる差異を生み出すのか、現実的で具体的な世界で価値が検証できないような議論は、議論をするまでもなく議論そのものが無効なのである。――かかる意味で合理論や神と云う最高概念から全ての存在者が階層的に配置されるドイツ観念論哲学や神学などのようなものとは無縁で、むしろその反対物なのである。

 プラグマティスムが読書の対象としては面白くないのは、かかる考え方が既に実業界では当然視され、実現してしまっているからでもあろう。世の経営者と称するものに対してかかる考え方を聴いてみた場合に、よもやジェイムズの考え方に積極的な異を唱えるものはいないだろうと思われるからである。こうした、当たり前の考え方を熟考する暇があったら、むしろ直接世の中に出て一円でも多く稼いだ方が良いとは、超プラグマティスとでもある日本人の云いそうなことである。日本ではプラグマティスムについて大学で学ぶ必要はないのである。

 さて、散々のプラグマティスムなのであるが、ウィリアムには同時にこれとは正反対の極にあると思われる大著『宗教的経験の諸相』がある。フランスをバス旅行するツアーに参加した折に邪魔にならないからと岩波の文庫本を携えてホテルのベッドで寝ころんで折節に読み継いだが、扱われた事象が特異でこの世離れしているのでわたしには難解であった。ジェイムズの言う経験の磁場と云う、通常の常識的な世俗の世界の価値観からは大きく外れた聖人や福者と云った、この世離れした人々の異常な言動と、彼の言うイギリス経験論のより以上の世俗化としてのプラグマティスムのものの考え方とどう結びつくか分からなかった。

 結局、いまでもウィリアム・ジェイムズの多面的な巨人性は理解できないままなのであるが、ジェイムズの経歴を見ると青春の若き日に画家として生きることに失敗している。画家としての才能には恵まれなかったが、医学部に入り直し、医者としてよりも心理学者として精神病理学史上に偉大な貢献を成したと云う。ジェイムスの才能は不可視の精神的世界の探索にとどまり得なくなって宗教的経験の世界の諸相を遍歴し、最終的には哲学に至った。しかしその哲学はプラグマティスムと云う、最もアメリカ的でもあればビジネスマン的な経営の哲学であった。

 かかる常識的、平板な処世の術を説くような哲学と、若き日の画家であることを諦めて以来の持病であるとされる偏頭痛とは如何なる関係にあるのだろうか。
 ジェイムズのプラグマティスムは幅がありある程度の寛容と云う名の余裕を持っているが、これを狭く解釈した場合は、この世の外に価値はなく、真理や真実と云うものは経験と云う目に見える世界で評価されねばならないし、評価は主観的な評価であることを超えて具体的な相互的社会関係の中で検証と云う手続きによって普遍化されなければならないと云う、ある種の堅苦しさを脱し得ないのである。
 本当に、実験仮説によって立てられた命題が経験と云う磁場に於いて機能し、機能が効果と云う観点からのみ、主として現金価値としてのみ評価を受けると云うビジネスマンの哲学に人は満足するであろうか。むしろ古典的な読書階級とは、おのれの実存がこの世的な価値とは不等式の関係にあり、世俗的価値観のヒエラルキーとは統合し得ないと云う見識の上にこそモラルや世界観と云うものを築きあげていたのではなかったか。

 結局、百年前のジェイムズらのプラグマティスムが学説としては大きな潮流となり得なかったのは、仮説-実験-検証と云う自然主義的な方法に寄りかかって、それをそのまま哲学と考えたことに寄るのだろう。
 しかし今日から見て革新的に思われるのは、神や真理とは、経験と云う磁場に現れる限りでの我々の価値的評価的なものの観方なり行為についての考え方なのであり、実在としての神や真理概念は、これをきっぱりと否定した潔さにある。つまり、神は死んだとニーチェのように扇情的に言わなくても既に神は死んでいたのである。

 ジェイムズのプラグマティズムの哲学は、普遍より個別を、抽象的一般性よりも具体的特殊性を尊ぶ立場であるから、神の現前に、明らかにドストエフスキーへの応答と思われる、イワンのモチーフを展開する。イワンの問い掛けとは、仮に、何時の日にか人類の遠い未来に千年王国の楽園が神の名に於いて成就するとも、飢えと悲惨の中で死んでいく無垢なる幼子の命を救えない神に真の慈悲はない、とするものである。ジェイムズの哲学には、効用主義哲学の根底にはかかる倫理的な問い掛けが潜んでいると推察される。  

 ウィリアム・ジェイムズのプラグマティスムの思想には難破船の思想、なぜか、ペシミズムがある。彼は一元論的哲学や宗教がもたらす精神的慰謝の働きを認めている。唯一者なり絶対精神が人類に肩代わりして、然り!と言ってくれたなら、どんなにいいだろう!ジェイムズの言を直接聞いてみよう。果たして、――
「人生の中核そのもののうちに『否』の事実があるのではないのか?人生は『厳粛』だとわれわれは考えているが、この事実そのものは、免れがたい様々の否と喪失とが人生の一部を形作っていることを、どこかに全くの犠牲があることを、そして永久に烈しく苦いものが人生と云う盃の底に常に残るものだということを、意味しているのではあるまいか?」(本文P216-7)


  
 また、プラグマティスムが持つ価値多元論としての寛容さは、まさに今日地域紛争とテロルの主戦場になりつつある時代に、一神教の神と一元的価値観、すなわちアメリカの正義を信じ、紛糾と混迷を深めつつある時代に於いて、対立する議論が経験の磁場を経由することで何らかの善であることを帰結する議論以外は空論であるとして、政治的妥協と修正と粘り強い話し合いを説くコミニュケーションとプレゼンテーションの哲学として、再度学び直す必要はあろう。

 それにしてもジェイムズのプラグマティスムと偏頭痛との不可思議な関係、人生の生きる価値をこの世の価値に限定してしまう考え方は、一方では人間として生きたいと願った、画家を目指した若き日若き頃のジェイムズを、ジェイムズが人間として生きるための、あるいは自らを生かすための実存としての条件をことごとくなぎ倒してしまう結果になったのではあるまいか。存在の工場というジェイムズの発想の中には、アメリカ式農業や工業の、ベルトコンベヤー方式の個性を無視した無常さとして終生ジェイムズの生涯に於いて不協和音として機能し続けたのではなかったろうか。

 ところで弟のヘンリーは兄の生き方や兄の哲学学説をどのように見ていたのであろうか。弟ヘンリーはアメリカの合理主義的な世界を去ってイギリスに帰化し、ヨーロッパの伝統に学び深く沈潜したが、ヨーロッパ的価値観を身に着けることで反ってヨーロッパ的世界の限界に理解を示すと云う固有のコスモポリタンになったのである。弟ヘンリーが描く世界こそ、ウィリアムの信じた経験的世界の背後に広がる幻想領域としての実在の、その二重化された圧倒的な、驚くべき破壊力!を描いて見せることにあったのだから。
 ヘンリーの描いて見せた世界の魔界的な、一筋縄ではいかぬ悪の複層性は、ようやく20世紀になって、その怖ろしい姿を人々の前に晒し始める、少なくともフランツ・カフカを除いて、他に予見し得たものはいなかった。 その問題についてはまた別の機会に論じてみたいものであるが・・・。ヘンリー・ジェイムズが提起したフランツ・カフカに先立って提起した問題、悪の根源悪の問題に対してウィリアムは明示的に対峙するという姿勢に於いて必ずしも意識的ではなかったのではなかろうか。なぜならジェイムズのプラグマティスムの考え方の中には、何か人は良きものであるとする、初期アメリカの共同志的同体的感情を根底に於いて展開されたものであると云う気がするからだ。価値観が根本的に異なった共同体外部の悪に対してどうするのか、悪意と云うものに対して怯むことなく如何に対峙し続けていくのか?ウィリアムの優柔不断さが、あるいは彼に偏頭痛の問題の後遺症として、世紀の問題に対して警告を続けていたのではなかろうか。
 夏目漱石に二人の兄弟を評した言葉が残されていると云う、正確な引用ではないがだいたい次のような意味を述べたと云う――兄のウィリアムは小説よりも平易な哲学を説き、弟のヘンリーは哲学よりも難解な小説を書く、と。




 2
 ウィリアム・ジェイムズと云う人は元々からかく多面的で複雑な人間であるから、彼の言説や人生観を誤りなく伝えるのは難しかっただろうと思う。彼の言に次のようなものがある、すなわち、――

人生をもっとも偉大に使う使い方というのは、
人生が終わっても
まだ続くような何ものかのために、
人生を使うことである。

 
 わたしたちの個別的な人生は平凡なこともあろうし非凡であることもあろう、しかし結局のところ、個々の個的な人生とはあくまで個別的なところに留まって、偶然性の側面を免れ得ないだろう。
 わたしたちが宗教や哲学に慰めを求め、ジェイムズのプラグマティスムで言う経験の磁場というものよりももっと広範囲の、読書や教養という知的な経験を積むのも、人は個的人生の中にあって如何にして自らの領域を拡張しうるのか、と云う問いに応えるものであるからに他ならない。
 その時、個的人格の領域と云うものは、必ずしも実人生の領域とはぴったりとは重ならないものであることを理解するはずである。観念的、抽象的な議論も空疎であるが、実人生や実体験を絶対視するものの考え方も、哀しい。ジェイムズのプラグマティスム思想の魅力は、よく読んでみると、通常の彼の言やセオリー化された言説を時折裏切る彼の奇妙で複雑で矛盾に満ちた人柄の中にありそうな気がする。ウィリアム・ジェイムズという存在が今後も気になる対象のひとつであることは変わらないだろう。