アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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寅さんシリーズの第二作 アリアドネ・アーカイブスより

寅さんシリーズの第二作
2015-01-21 22:04:40
テーマ:映画と演劇

 



 第二作も傑作であることは間違いないことだろう。書きたいのはそのことではなくて、さいわい全シリーズを第一作から見る企画が進行しているので、寅さん像の変質!と云うものがどの段階で生じたのかを確認してみたい、と云う思いもある。
 何度も言ったので手短に言うが、ちやほやされ本人もまんざらでもないと思うようになる寅さん像はどの段階で成立するのか、という点である。どの段階で日本人の国民像が成立するのか。

 男はつらいよ、の、車寅次郎を、「瘋癲の寅」と名付けたのは、第二回に登場する、かっての恩師、坪内散歩先生だったのですね。
 この先生は、映画の終わりには、寅次郎が釣った江戸川の鰻を食べられずに死んでしまいます。寅さんシリーズには人間的に立派な方がたくさん出てきますが、この先生は立派な人格であるだけでなく、寅次郎と心情的に通底しあうものがあります。それは格差社会への怒りであり、弱者への心情的な同一化です。教育者として立派な暮らし向きをしているのに、社会弱者への極端なシンパシーの理由は描かれていませんが、育ちのせいかもしれません。帝釈天の御前様も坪内性を称していますので、それぞれが地域地縁につながる名家の人脈の一員なのかもしれません。

 それに応じてマドンナ役の佐藤オリエもまた、チェロを弾き楽団に勤めると云う、寅さんの境遇とは全く異なった世界に生きています。父親譲りの感性で、いかに寅さんの境遇に同情はし得ても、最後に婚約者に選ぶのは市民病院の青年医師です。決して混じり合うことのない二つの世界の異質さを、映像の方はコンサートの場面で描きます。一方は舞台の方で弦楽器を厳かに構え、他方は客席から一人静かに聴くのです。映画の途中で、何の説明もなくこのシーンが、ポンと置かれるのですが、二つの世界の余りにも極端な違い、寅さんの世界とは交差しないまま終わるだろうと云うことを暗示しているのです。

 育ちの良さとインテリジェンス、これが寅さんが憧れても手に入らない当のものです。第一作の光本幸子は、育ちや境遇の違いと云うものを、残酷なほど優雅に描きだしました。その場面が残酷でないのは、彼女が一点の瑕疵もないほどの鷹揚な優雅さに満たされ、この世の些事とは交錯しない女神のように設定されているからです。山田洋次は彼女の、決して世俗とは交差することのない非情な美しさを優雅さの映画文法で描く場合に、ルノワールかモネの水遊びの光景にも匹敵するような空を映す川面と日傘の輝きの典雅さとして、江戸川の風物詩として描き出しました。

 面白いのは同じ坪内姓として佐藤オリエ演じるマドンナもまた同じ階級同じ環境に生きているのですが、性格がまるで正反対なのです。彼女は美しいだけでなく、想像力でもって寅さんの哀しさを自分の事のように理解できるのです。
 寅さんシリーズの様々なマドンナたちの群像、十人十色と云うように幅も高さもそれぞれに違うのですが、役の設定に加えてシリーズ映画に招待される女優さんの個性もそれぞれに生かされて尽きぬ興味を繋いでいるのですが、この佐藤オリエ・マドンナだけは事情が少し違う、彼女だけはその父にしてその娘、というか、異界の娘にしては寅さんの事情を知りすぎるほど知っているのです。彼女の場合は、寅さんの憧れが外側からでなく内側から見えてくるのです。つまり、阿吽の呼吸と云うか、彼女の場合は万事に於いて説明が要らないのです。
 それが彼女の控えめの性格であるにもかかわらず、果敢な行動力を生むのです。寅さんに未だ見ぬ瞼の母がいると聴けば、積極的に励まし、自らも首尾を見届けるために京都まで付いていきます。寅さん母子の再会劇の失敗は、傍目に見る他人事の同情ではなく、自らの落ち度として理解する感性と明晰さを示しています。
 この明晰さ、果敢さが、恋愛は同情に似ているところがあるけれども決定的に違うものであること、二人の運命の交差と別れを認めさせるのです。ここに云う決定的に違うこととは、育ちやインテリジェンスの事ではないのです。つまり真実の時間を経験として生きるものと、そうではなく、渡世稼業!と称して真実の生き方、時間経験から遠ざかる努力ばかりをしている軽みとしての人生との違い、人生に向き合う態度がまるで違うのです、経験の質が違うのです。定型的脱落者に自己を同一化させることで自分と向き合うと云うしんどさを回避させる理由として利用しているのです。

 寅さんの瞼の母めいた生い立ち、それについては佐藤オリエ演ずるマドンナが、説明するまでもなく分かってしまう感性と想像力の持ち主であることは書きました。同様に諏訪博士もまたこの種の点に関しては「理解してしう」性格の持ち主として設定されています。それは「僕にも経験があることだから」と云うのですが、彼の場合真実の愛を知ると云う経験が敏感にもの事を知る、同情と云う外側からみる反応ではなく、内側から行動力として結実するところの感性を育てているのです。

 面白いのは、寅さんのドラマに、意外に隣家のタコ社長が経営する印刷所の行員たちが一様に、身につまされるような思いで聞き入る場面が挿入されていることですね。それは一般人も寅さんの悩みを聞いたということではなく、固有の者たちが聴いた、ということなのです。
 彼らもまた、寅さんのように、親に大事に育てられてはこなかった、今日でこそ、何か親が子供を可愛がるのは当然のように思われているけれども、親子の関係とは太古の昔からいまあるように、そうだったわけではなく、それほど昔の事でもなかった事を映画は図らずも描いているのです。

 男はつらいよ!でも、男は泣いてはならない、男はこころで泣くものだ!――そうした寅さん像を期待している観客の目には、初期の寅さんはまるで違って描かれています。
 ほんとうに、子供のように泣くのですね。他人を意識した社会的な泣き笑いではなく、子供部屋か物置部屋の泣き方です。哀れと云うよりも、心が痛くなるような笑いです。こころが痛く悲しいけれども、何時かどこかで聴いたことのある、経験したことがある、子供の世界に固有な悲しみに似ています。
 後年の寅さんはこうした惨めさ哀しさからは脱していったと思います。堂々と茶の間に出てこれるキャラクターとして生まれ直し生まれ変わりました。しかし、いつかどこかで聴いたことのある出生以前の、経験未生の悲しみは忘れ去られたのです、それは日本人の忘却でもありました。