アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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カーク・ダグラスの映画『スパルタカス』 アリアドネ・アーカイブスより

カーク・ダグラスの映画『スパルタカス
2015-03-02 18:09:10
テーマ:映画と演劇

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 半世紀ほども前のハリウッド映画全盛期の映画について感想を述べてみたい。
 今日からみればキャスティングをみると、スタンリー・キューブリックの名前に注目度が引き付けられるが、彼自身は、この映画はカーク・ダグラスの映画だとして自作の映画に名前を冠することを肯じ得なかった作品であったようである。あくまでダグラスとハリウッドのカンパニーシステムが造った商業映画として遇したかったようである。たしかに、キューブリックの映画を見ている範囲で感想を述べるとしても、『2001年宇宙の旅』、『シャイニング』とは随分、趣きが違った仕上がりになっている。
 それではこの映画はカーク・ダグラスの映画としてみると、筋肉隆々の男性美の精華たるハリウッドスペクタクルそのままに仕上がっている。この映画で描かれる、自由、平等、勇気、そしてアメリカ人が大好きな正義と、当時同時並行的に描かれていた西部劇と呼ばれたジャンルの拡大された像を見ることすらできる。
 それでは、この映画はステレオタイプで、今日からみると鮮度も落ち、見栄えもしないかと云うとそうでもなくて、政治的状況の絶望的な暗さと、この世を超えた形而上学的な愛や気高さと云うものは、いつの世も心を打つのである。あるいは、今日だからこそ、郷愁として、こころうつもの、として感じられるのかもしれない。
 この映画では、この世を超えた愛と気高さをローレンス・オリヴィエジーン・シモンズと云うイギリス人俳優が好演している。シモンズの美しさは、たしかに、本来はあの『ローマの休日』と云う映画は彼女に振り当てられていたのが、偶然に、当時無名だったオードリーの方に流れていったと云いう理由を、肯うだけの理由がある。単に美人であるという理由だけでは女優の条件を満たさないことは分かるが、美人の条件である顔の部品の一つひとつをとってみると、オードリーの比較の対象ではなかったことが分かる。カーク・ダグラスは彼女に、世俗的な権力を超えた愛の理想像を代表させた。世俗を超えた愛とは、例えば、その美の対象の前では人間的なあらゆる欲望が消滅すると云う現象である。実際にヒロインのダグラス演じる剣闘士は、初めて知った女性への愛を前に、あらゆる人間としての欲望を喪失させてしまうし、オリヴィエ演ずるローマの執政官クラッススにしても、反乱終了後権力によって手に入れた女をどうすることもできるはずなのに、百戦錬磨の世知闌けた彼にして、一人の女人を前に、愛とは何か、などと書生じみた質問をして、まんまと隙を突かれて逃亡を許してしまうのである。
 こうしたクラッススの描き方は史実のレアリスムと云うものには反しているだろうし、説得的であるともいえない。しかしその彼も、やがて傍らにいるジュリアス・シーザーによって政権の場を追われることになることは、映画の終わりで本人も自覚しているところである。他方、クラッススに政界の場を追われて自殺に追い込まれる元老院の実力者グラッカスにしても、政界の手練手管の老獪な名手と云うだけではなく、死の直前においてはピーター・ユスチノㇷ演じる奴隷商人バタイアタスとの間に、気高さとは何か、について哲学的な議論を半ば討論させている。これが形式的なお飾りではないところは、この後、この二人の「きまぐれ」が、スパルタクスの愛児と愛人を映画の最後の最後で、奇跡的に救い出すことになると云うエンディング、権力の目をかいくぐる不可視化された、死後の術策として機能することに於いても、雄弁に語られている。
 結論に於いて言えば、この映画は今日に於いてもなお見ていて面白い。最大の見せ場は、やはり最後の大草原で展開されるローマ正規軍を迎え撃つスパルタクス団との戦闘シーンであろう。ローマの重装歩兵集団が矩形を市松模様に組んで前進してくる場面の迫力は圧倒的である。反乱軍はこれにたいして、地形上、丘の斜面上部に布陣し、車軸に藁を巻いたローラー状の火車で対抗する。質量ともに圧倒するローマ軍の前に勝敗は既に明らかなのであるが、ポンペイウス等の援軍が到着し側面から攻撃を受けるに及んで総崩れとなる。女、子供、老人を含んだ十万人に及ぶ反乱軍の大半が殺戮され、数千人が奴隷となる。その奴隷も、ローマに凱旋する見世物として街道の両側に十字架の列柱を残してローマに至るリアルアイムの芸術的オブジェと化す、そして最後にスパルタカスも最後の一人として十字架上に吊るされる。

 反乱軍の最後の生き残りとなったスパルタカスと同僚が、最後の夜、死について語る、この反乱は果たして意味があったのか、と問う。スパルタカスの脳裏に末期の夢のように反乱の当初よりの一部終始が映像として明示されないままに流れる。そこには、自分たちが人間であることを初めて理解した十万人の一人一人の表情があった。その瞬間、一人一人が生きていたのだ、とも。しかし、と同僚は言う。その彼らも、もうこの世にいないではないか、と。
 
 そして残された失意の二人を見舞うことになる運命はより苛酷なものであった。ローマの兵士たちの盾で囲まれた円陣の中に囲い込まれた二人は闘うことを命ぜられる。敗れたものは当然死を、勝ったものは十字架刑が科せられていることを予告されて、二人は闘う。つまり生き残るために闘うのではなく、相手を十字架上の死を免れさせるために死闘を繰り返すと云う、逆転のゲームなのである。力尽きて倒れた同僚は最後にスパルタカスに言う、お父さんと!父親のように想って今日まで反乱に従ってきたのだ、とも。

 キューブリックの謙遜にもかかわらず、この映画、それなりに歴史的スペクタクルとしては上々の仕上がりになっていると思う。カウボーイ俳優カーク・ダグラス、『ガンファイター』では決闘の場に臨んで、拳銃から球を抜いて撃たれると云うイロニカルな役を演じて印象的であったが、この映画でも正調を演じて堂々として格好よい、最後は十字架上で、消えていく意識の末期にローマを逃れていく母子の映像を焼き付けて幕となる。

(付記) この映画、主演兼プロデュースのカーク・ダグラスを除けば、ローレンスオリヴィエ以下、主要な脇役陣をイギリス俳優陣で占めている。これには理由があるのだろうか。あるいはハリウッドのスノビズム?あるいは欧州市場への商業的な配慮?
 ひとつには、アメリカに於ける現代史、マッカーシズムによる赤狩りの歴史の記憶が生々しく残っていた時代にカークがかかる企画を企てたことも完璧に無関係ではないだろう。愛国的あるいは小心なハリウッドスターからは敬遠されたのかもしれない。これっぽっちも左かかったことはなく、徹底的に保守的でいて頑固なカウボーイスター、カーク・ダグラスの面目躍如の作品として記憶しておきたい。