アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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スカルピアとはだれか? アリアドネ・アーカイブスより

スカルピアとはだれか?
2015-04-25 05:55:10
テーマ:音楽と歌劇


 オペラ『トスカ』の不思議さは、筋書きだけをたどると俗っぽいメロドラマに過ぎないものが、感動的な音楽作品になっている点だろう。そういえばモーツァルトのオペラなども概してそうなのであって、オペラはつくづく演劇ではないと思わざるを得ない。
 ところで大メロドラマの『トスカ』についてなのだが、敵役である冷酷無比のスカルピアが、主演のトスカに次いで、あるいは凌ぐほどの卓越した人気があって、トスカ恋人、悲劇の副主人公カラヴァドッシが有名な絶唱、「星はひかりて」の終幕の盛り上がりがあるにもかかわらず、存在感い於いて霞ませてしまうのである。聴くところに寄るとオペラ界では、世にスカルピア俳優と云うものがあって、あるいはスカルピアの役を貰うことはオペラの世界では大変に名誉なこととされると聴いている。

 さて、そのスカルピアの魅力についてだが、感情を持たない単なる冷酷無比の冷血漢としか思われない人間造形なのに、その魅力を解き明かそうとすると、一部には、本当はトスカはスカルピアを愛していたのではないかなどと云う、と云う意見が根強くある。そのまことしやかな学説?にはふたつ理由があって、一番目は第二幕の幕切れで、彼はトスカの一撃であえなく命を落としてしまうのだが、この暗黒ともいえる場面で、腹部にナイフが刺さったまま、床に仰向けに倒れた彼の死を、まるで悼んでいるかのように燭台を光で飾り、まるで聖者の死を祝福するかのように、殺害の現場を去ろうとしているトスカが、スカルピアの胸に十字架を静かに起き、十字架を切る、一種荘厳な――と云ういい方は多少語弊があるかもしれないが――場面がある。単なる悪人の死とは描かれてないのである。
 二番目の理由は、第三幕の幕切れ、生前のスカルピアから空砲だと聴いて信じていた恋人カラヴァドッシの処刑の場面で、実はそれが実弾で、恋人の死体を胸に抱えて嘆く場面での台詞、――騙されていたと知ったトスカは――スカルピアよ、神の御前でいま一度会おう!と云うものである。このあと彼女はサンタンジェロ城の城壁からドレスの裾を翻させて華麗にも身を投げる場面が続くのであるから、このオペラでのクライマックスともいえるこの場面で、恋に生き愛に生き歌に生きた女が末期に思い浮かべるのは、恋人の面影ではなく、自らを理不尽にも死に追いやった冷血漢スカルピアの方なのである。スカルピアと来世で神の御前でいま一度相まみえたい、と云うのである。何とも勇ましくも潔い、この世の告別にあたっての捨て台詞である!

 近代の心理学によれば、愛することと憎むことは場合によっては表裏の関係にあると云う理解からすれば、憎んでいるがゆえに愛すると云う、倒錯としての愛と云う理解の仕方も確かにあっていいだろう。あるいはこの方がロマンティックな愛からは遠ざかってしまった現代人のドライで複雑に屈曲した感性には合うのかもしれない。
 しかしここではこの説によらずに、冷酷無比の政治的人間が同時に美に殉じる美学者であると云う理解の仕方をしてみた。オペラの内容から見ても分かるように、通常スカルピアは伊達で粋な男として演出されている。彼が並々ならぬ音楽的素養と教養の持ち主であることも随所に示されている。彼はローマの政治の世界を宰領しているように、架空のオペラ世界で思い描いた芸術的幻想としての美意識を現実の世界に、自分の絵筆で描いてみたいのである。世紀末のローマの政治的世界に、生殺与奪の権利を持った作者の存在の如きものとして君臨し、オペラ的な世界を現出させてみたいのである。それには主役として比類なき歌姫が必要でもあるし要請されるところでもある。そんなある日、政治犯アンジェロッティのサンタンジェロ城の脱出に端を発した一連の近未来の政治劇の発端と顛末の大雑把な筋書きを頭に浮かべ念頭に読み取りながら、歌姫だけが欠けている、などと薄笑いを浮かべてひとりごちる場面は、ナポレオン戦争時代の具体的な政治的事件と云うよりも、何かオペラの舞台設定と書割で現実をなぞるかのようなスカルピアの美意識の固有さ、特殊性が際立つ場面である。

 歌姫とは、出来ればオペラセリアの形式が望ましいであろうし、悲劇的であればあるほど、悩ましければ悩ましいほど、これ以上にないと云うところまで美貌の非力な歌姫を、加虐-被虐の構図の中で痛めつけることが出来るならば、この世ならぬ妖艶な倒錯の美が出現することもあろう。スカルピアが期待しているのはこういうことなのである。
 スカルピアの誤算は、トスカを世紀末的な美意識のサディズムの構図の中に描き切れると思いこんでいた点、奢れるものひとり合点さの程度にある。トスカに向けられたサディズムの刃は、極限に於いて反転し、思いもかけぬトスカによるスカルピア刺殺と云う思いもかけぬ形で終わる。むしろ悲劇の歌姫と云う倒錯性を帯びたスカルピアの美意識は、自らの論理性を徹底するためには反転せるサディズム、すなわちマゾヒックな美意識による、官能的で美学的な自死、他者の手を借りた自殺、と云う形で終わらざるを得なかったのである。トスカが最後に死者の胸に十字架を手向ける儀式とは、美意識に殉じて死んだ者への弔辞の如きものとも、この場合考えられるのである。自らが幻想の世界のなかで紡ぎあげ練りに練り上げ造形した悲劇の女神の手で、復讐の残酷な刃を受けて悲劇的な死を遂げる、スカルピアにとって、彼の主観的な意図とは別に、内在的美の論理としては、これほど自らの美意識を満足しうる段階、境位があったであろうか。他方愚かな女の方は、女として歌姫となることによって、スカルピアの並々ならぬ美学者としての位相を、現実を超えた境地として垣間見たのであるし垣間見えたのである。それは倫理や道徳、復讐心や怨念と云った主観的な心情を超えて、ある種、高貴さの片鱗を湛え、それなりに美的でもあれば豪華で華麗な、普遍的なオペラの絵姿ではあった。

 それではトスカは、自らの画策が水泡と化して裏切られた挙句の、第三幕末尾の、――スカルピアよ!あの世で会おう、神の御前で!とは、何を意味する言葉であろうか。これは一連の無惨でお粗末な政治的ドラマの帰結を前にして、有史以来、神などは存在しないのだ、と言っているのである。トスカの象徴的な行為が、城壁から身を投げて自らの主体的な意思に於いて死んでみせると云う意志表示であり、自殺と云う行為が並々ならぬ神の存在論への意義申し立てであったことは説明するまでもないことだろう。第三幕に於けるトスカの選択は、スカルピアの美意識云々の近代的自意識の段階が遥かに手が及ばない水準に達しているのである。トスカとスカルピアに通常の男女の関係を見ると云う解釈の介入する余地などはない、と思うのである。

 トスカとスカルピアが描いた軌跡は、性格劇としては双曲線を成している。スカルピアの魅力は、たしかに、彼の性格の複雑さにある。彼の世紀末的な素養、美意識の卓越にある。政治家として美に殉じようとするその姿勢は、ある種崇高なものすら感じさせる、と云うことについては既に言及した。
 他方、歌だけが取り得の愚かな女として登場するトスカは、愛に生き、歌に生きた歌姫としての自らの越し方を確認することに於いて、より一層、その性格は、単純で純粋なものへと変化する。自らの死をのたうち回って死ぬスカルピアの俗悪さと、歌を契機とした自らの存在の浄化作用の対比が見事である。そして、その純粋さの極限として、自らの命を絶つと云う行為が、ローマ的意思が成立する。
 他方に於いて、近代的な美意識と政治的人間が合体することに於いて生じた、サイボーグの如き人工的な美の権化スカルピアの、一筋縄ではいかない複雑な人間像は、やがて20世紀における一連の悪魔的な人間群像の先駆を成すと云う意味では、暗示的でもあれば象徴的である。具体的に言えばヒトラーから三島由紀夫まで、小林秀雄から川端康成まで――この場合は非政治性を強調することが皮肉なことに顕著な政治性の表明になっている――、を考えているのだが、それは政治を美意識に於いて還元できるとまでは言わないけれども、ある面において近代的な自意識の悲劇でもある。
 オペラ『トスカ』は、20世紀の不吉な、文明の野蛮としての悲劇を暗示しているのである。(政治的人間と美的趣味の合体は石原慎太郎安倍晋三型の登場に於いても一部認められる、55年体制崩壊後の兆候である。)
 他方、トスカが象徴しているものは、さしずめ美のテロリストと云うことだろうか、ダヴィッドによって描かれた自ジャン・ポール・マラーの浴槽に靠れるように息絶えた死の場面と、画面には描かれなかった、シャルロット・コルディーの熱き不規則な息吹、革命期に奉げられた思い出、挽歌のように!

 

 


#観劇
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