アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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池内紀『カント先生の散歩』 アリアドネ・アーカイブスより

池内紀『カント先生の散歩』
2015-05-31 18:08:20
テーマ:文学と思想

 

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 ベルグソンヘーゲルと周辺の手軽な新書版を読んできて、ついでに軽いノリでこの本も読んでしまった。
 さて、気になるのはカントの老いと云うことについて。――以前に少々書いたことがあるが、違いはわたしの場合は大部分想像であること。根掘り葉掘り調べる時間がないと云うのが言い訳だが、そのせいでわたしの文章は思い違いや勘違いも多い。だから、本書のようにしっかり調べて書いてある書物に出会うと自らの知見を修正する機縁になることが多い。 

 従僕ランペに就いて。――四十年間カントに仕えた忠実なる従僕が、最後はカントの目を盗んで酒を飲んだり、老哲学者の老衰をよいことにして加虐性を発揮してベッドから落としたとか、抓って嫌がらせをしたとか、そのせいで遂に解雇されたとか、昨今の介護の現場をみるようでもある。ありそうなことである。

 これも、わたしの以前の想像では、老いたカントを見るに忍びなくて深酒をしたのだ、と体裁よく書いておいた。偉大なる世界精神が朽ち果てていくと云うことが見るに忍びなかったのであろう。わたしの推測は綺麗ごとすぎるのであろう。

 臨終の言葉、――これでよし!にしても、老衰のために水分が嚥下できにくくなったカントのために薄めたワインを口に運んでいるときに、三杯目だか三口めだか、これまでに!と云う意味であったか、両方にとれて、分からないのだとか。

 ついでに言っておくと、すべてこれで良し!とはゲーテの言葉であったか。何事を成すにも自信家であったゲーテとは違うのである。
 わたしたちもまたカントに聖人としての死を期待したわけではなかった。なぜなら、彼がわたしたちに教えてくれたことは、身の丈に合わせて考える、と云うことであったのだから。

 老齢は、この偉大な天才にして、例外なく平等に見舞うことになる。やはり彼も人間であったかと云う思いとともに、カントの思想と云うものが青年のものだった、と改めて思うのである。思想の成熟や生成の過程が、生物種としての人間のサイクルと同期・同調せずに、若いままで無防備なまま死に直面したこと、如何にもカントらしさを感じてしまう。

 例えばカント哲学の用語に、先験的、と訳される用語があるが、先験的とは、経験に頼らないと云うことである。経験を云々するようになると老化の兆候だといわれたりするが、経験を積むことによって必ずしも人間は賢くなるわけではない、と考えていたわけである。彼は革職人の子であるから万事が経験が支配する世界に生きたのだったろう。しかし理性の光は、そうした境遇や生まれや育ちとは別の問題であること、経験によらず個体性によらず、一人一人の人間には普遍的な高貴さや偉大さと云うものが潜在していることを言いたかったのである。

 穿った見方をすれば、最晩年、老哲学者は果敢にもプロイセンの当局に盾を付くのだが、これも老衰や脳の問題だった言おうと思えば言えそうなことである。

 フランス革命の感激が去って、国民の思潮の大勢が現体制の保守の方向へと転ずる中で、革命の理念に忠実であったことは意外と知られていない。学者の役割には二つの面があって、一つは学問の世界で世俗・世相の事は気に掛けずに学的営為の砦を築くことである、もう一つは学理や学説の公共的使用と云う問題がある。学問を世のため人のために使わなければならないと云った人は他にもいたけれども、特にそれを、公共的、と特に云ったのはカントが初めてではないのか。

 人間の仕事にもやはり二つの面があって、一つは仕事や業績と呼ばれる能力の使い方の方面である。もう一つは、あらゆる私性、傾向性を去って公民公論的なあり方から発言なり行動をすることである。後者のあり方は戦後の日本では特に評判が悪くて、古くは学者先生の世間音痴から、手の込んだものとしては小林秀雄から江藤淳吉本隆明に至る戦後的言説の主導的思潮、左翼右翼の垣根を超えた大同団結の観ある論陣が既にあった。資本主義社会下の市民社会とは欲望の原理を基本としているのであるから、個人の欲望やエゴイズムを踏まえることのない議論は空理空論である、というのである。蘇民社会を欲望の論理としてとらえるのはスタンダールバルザック以降のセオリーであり、哲学の世界ではヘーゲルマルクスが定式化した、と云われている。
 たぶん彼らが正しいのであろう。

 この書でカントを取り上げている理由も、実は昨今評判が芳しくない、公共性、の言説を主張したカントの変わらない新しさについてなのである。著者は専門でもないのに、数年前に『永世平和論』の新訳を改めて訳したのだと云う。『啓蒙とは何か』などと並んで、言語の公共的使用の見本のようなものであるからだ。
 こんなことは今日、青二才でも云わない。やはりカントは若いのである。青春の哲学なのである。カントには果敢さとか潔さとかの語感が大変にあうように思う。

 この書の特徴は、一般的に定着しているかに見える謹厳のひと哲人カント像を修正することであった。その第一は私人としてのカントの日常生活の規則的なサイクルであろう。二つ目は学問的研究では紹介されることの少ない彼の私的な交友関係である。三つ目は、カントの生きた時代を同時代の歴史的変動と対比関連して語ることである。何といってもカントの生きた時代とは、フランス革命がありアメリカの独立戦争があり、欧州とその周辺を巻き込んだナポレオン戦争があり、世界史に於ける諸国家間の権力構造の再配列と再配置がなされた激動の時代、帝国主義時代の前史としての近代の前半部を代表しているからである。

 最後に、カントが生涯を通じて一度も離れることなく彼の学問体系の熟成に関わったケーニヒスベルグと云う町が今日ではロシアに所属していることなど、知ってはいたけれどもなかなか馴染めない。七百年に渡るバルト海の真珠として栄華を極めた歴史的な古都が第二次大戦の惨禍で灰塵に帰し、カントと彼を囲む人々の生きた痕跡すら徹底に破壊され、当時を偲ぶ縁すら失われたことなどありうべきこととも思えず、ため息が出るほど感慨が深い。

 思えばどんなに美しい町だったのであろうか。カントが他大学の招聘を断り続けて生まれ故郷に拘った理由も、転居を重ねながら城館と瀟洒な商館と港湾と運河と森と教会とを繋ぐ当時最先端の国際都市の通りや路地を散歩と称して彷徨を重ねたことなども、あながち田舎者の頑固さであるとか、旧弊な学者的なスタイルであるとかの、ネジまき時計カントなどの固定されたイメージを離れて、まるで青春のさすらいのように、ひたすらに儚く懐かしい。

 カントが伝説を生んだと云うことは、彼がこの町から如何に愛されていたかということだろう。彼の奇癖とも云える日常の些細な所作が面白おかしく伝えられたかということは、如何に彼がこの町の人々にとって誇りの対象として想われていたかということに他ならない。そして、そうした人々の記憶や痕跡は歴史の過酷な淘汰の闇に失われて、ただ一つ、『純粋理性批判』に始まる三批判書のみが記憶の金字塔のように形而上学の森に聳えていると云う孤独で孤高な風景をみるのみなのである。

 今はもう幻となったハンザ同盟の後期の都市の蒸気と湿気と靄の中から、蜃気楼のように、平和と諸国家間の政治権力や調整の提言が出てきたのであろう。

この書を書いた著者の望みは、憲法解釈や七十年に渡って戦後平和を維持してきた昨今のわが国の国際社会における役割の中に於いて、格好よさに関わることなく、見の丈にあわせて考えること、先人の平和を維持すると云うことの意味について、若い人たちに今一度考えてもらいたいとの願いが通底しているように思われる。

 カントと、わたしたち戦後の日本人との大きな違いは、平和であるとは、――わたしたち戦後世代にとっては、「先験的」!な既にある事実の問題でしかない。他方、世界史の出来事についても深く研鑽したカントにとっては、はたまたヨーロッパ史において、はギリシア・ローマの時代以降の、動乱と国家・民族の離合集散、離散消滅こそ本来の状態なのであって、平和とはつかの間の休日、人類の日曜日、つまり塹壕キャンプでの休戦状態のようなものにすぎないのであった。

 わたしたちは戦後の時間と云うものについても考えてみなければならない。
 七十年間と云えどもカントならつかの間の休戦期間であると感じたであろう。休戦の期間を一日でも先へ先送りすること、人間は愚かな生き物であることを知りぬいていたがゆえに、いまここで世界精神への祈りにも似て、一日の繰り延べ!日延べ!順延!を願う!――つまり根本的な解決はないと云う無限の緊張感に耐える――それが身の丈に合わせて生きることの現代史的解釈なのである。