アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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自転車とお茶のはなし、自然が語ること アリアドネ・アーカイブスより

自転車とお茶のはなし、自然が語ること
2015-06-02 11:33:41
テーマ:茶道とお能


十代の終わりころのある日、ヴィトゲンシュタインの名前が教壇の方から落ちてきて、言語に囲繞された閉塞感を当時の状況に重ね合わせ二重読みをしたものだ、師走が近づくころ、川端の『雪国』を持って各駅停車の旅に出た。当時は一枚の切符で途中下車が許されていて、改札を潜るごとに押される押印で一枚の切符は一杯になった。

 そのごの経緯は川端のようには万事器用にはいかなくて、トンネルの向こうは、見当違いも甚だしい日本の現実があった。川端にも責任の一端があるのかどうかは分からない。
 彼は、見当違いの感想を述べてノーヴェル賞の聖餐にあずかり、これなども80年代の出来事のひとつではないかと思っている。もう一つの勘違いは佐藤栄作首相のアムネスティの評価と平和賞の受賞である。――今はむかし、所詮はこの程度の事なのである、今日では思い出すものもいないので時効と云うことにしておく。

 さて、そのヴィトゲンシュタインのことであるが、ざらざらした大地の感触を求めなければならない、と云うことであったそうだ。そういえばカントの『視霊者の夢』の結論もまた、庭に出て働くべき時がきた、という風に書いてある。蠅取り壺の話もあったが、大概にしておく。

 さてトンネルは気が遠くなるほど長く、材料力学で云う遅れ破壊のように十年近くなってから見当違いのところで微小破壊した。
 サイクリングを始めたのもちょうどその頃で、小さなミニサイクルを買って近所をちょろちょろ。意外と乗れて、体力が残っている方に反って驚いた。対面して話すようなことではなくて、初めて買ってもらった三輪車に乗った子供が、通りの角やその先へと少しずつ世界を広げていく、手探りするように世界と自分自身の頼りない身体の関係を関連させていく、関連させていく中で自っアKンと云うものを学んでいく、あの感じなのである。三十も過ぎて情けないていらくではあった。

 山国を目指して、嘘だろうとわざわざ確認に来た友人の車に助けられて峠を越えた。峠を越えた山里の宿で同宿人から雄大な話を聴かされて、初めて本格的な自転車と云うものを宿の玄関に見に行った。見せられてその精巧な機構に驚いた。
 山行きや峠越えを好んだのは出会いの初体験が影響しているのだろう。ひとと誰とも競合しないと云うことが気持ちよかった。平地では好んでメインの国道を長距離トラックの集団と向き合いながら走った。雨の日の追走は海水浴の方に近かった。路面を叩いて跳ね飛ばされてた雨水の分厚い層が逆立つ鼠色の波頭のように、あるいは空飛ぶ直立波のように、時差を於いて、スローモーションで迫ってくるのは夢の時間に似ていた。

 自転車に乗ると云う経験の中で、直前まで遣っていた茶の経験が再現されてきた。茶道とは水を張った重い水差しを運び入れるところから始まり、やおら袱紗を持って最も軽い茶杓を扱う作動に移行する。水差しを下半身で支えると云う所作が体の筋肉に残っているから、箸よりも軽い茶杓を下半身で支える所作と云うものが納得できるのである。

 茶の湯の不思議さは狭い茶室の空間の中に対抗するものの些細な痕跡を平衡させ、全方位のバランス感覚から、精神を支えるためには肉体がぞれの十分に拮抗するほどの重力と磁力を持たなければならない、と教えるのである。遂に極意を会得するまでには至らなかったけれども、畳二畳ほどの空間に宇宙を現出させると云う古人の極意もまた、理解が及ばないわけではない。

 ペダルを踏む単調な所作の中で、最初の一時間ほどは、最適なギアを探す行為であり、同時に体と精神と云うこれも二つのギアのバランスを探している行為なのである。
 ギアと肉体の間のギアが組み合った時、ペダルを踏み込む爪先が伸びきる。回転する駒が無心の無摩擦状態に自らの平衡を見出すように、半睡眠にも似た半仮死状態の中で、絶えず身体は地球の重心に向かって立つと云う行為が成立する。身体と地球の重心が一致を見る。思えば重心に向かって垂直に立つと云う行為がこれほど完璧に成り立ちうる継続的行為と云うものは、日常的な労働の中では容易に成立しない。日
 常とは異なったときの刻みの中で、まどろむように自然が朧げにおずおずと、自我の中に相互嵌入しているのを確認する。自然と出会うのは大自然のなかではなく、大型トラックが繁華に行きかう産業道路の途上に於いてであった。

 自然との出会いが危険なものであったことについてはヨーロッパの聖職者たちは良く知っていたと云う。彼らが森の妖精や薬草取の何の変哲もない田舎のお婆さんを魔女として焼き殺したのは、今日から容易に断定されそうな科学的な無知や偏見だけではなかった。日本では自然と宗教は違和感がないけれども、ヨーロッパ人の方の感性は宗教の本当の敵は無神論であるよりも自然の顕現であることを伝えている。

 ルーマ。ゴッテンの原作を映画化した『黒水仙』と云う古い映画があるが、ヒマラヤの山麓に若き修道女たちが本部の指令一下布教のための修道院建設のために苦労すると云うお話である。彼女たちが酸素の薄い高地の、古い仏教的な因襲が残る山村社会で遭遇する、自然、との遭遇としか言いようのない体験には意外なものがあった。
 東洋と西洋の対立などと云う聞いた風の話ではないのである。本国の教団から隔離され、あらゆる西洋的な情報が途絶した絶海の孤島と云うよりも、ヒマラヤ山麓の雲海の上に屹立するような、石と倒木とだけで組み上げられたような山村の山小屋風の暮らしの中で、――つまり、日の出とともに起床し、日没とともに眠りにつくと云う当たり前と云えばあたりまえ、日々の仕事といえば、会堂の煉瓦を積むことと日々の暮らしのために田畑を開墾することや乳しぼり、山村の平凡でもあれば単調に暮らす簡素な暮らしの中で恐るべきある疑念が生じる。
 生きて眠って食って排泄する、ただそれだけの生活、動物と同じレベルのような文明や文化からは程遠い、そうした生活に意外な充実があるのである。言い換えれば、人はそうした生活の他に何が必要なのであろうか、何か別に生きがいとか価値とか目標とかを求める必要があるのか、と。
 直截に言えば、神がいなくても満たされてあるあり方があると云う自明の生活、神なしでもひとは生きえると云う、世界と自然の中に習合化され深く象嵌された自分のあり方に改めて気づいて、年長のベテラン修道女はそれをこの上もない罪の意識と感じ、年下の修道尼院長の前に密かに告解するのである。年若き修道尼院長の補佐役として、あるいは監視役として本部から派遣されたはずの人間に、深い自信喪失が雪崩のように起きる。
 
 文化と文明が果てるところ、人里離れ隔離された山岳僻地に籠って修行するときに我々を見舞う世俗の誘惑と云う、聖者が受けたとされる誘惑の数々、聖人伝説、それらはみんな、あるいは嘘だったのである。
 極限状態に於いては人間の諸欲は次第に減退していきひとつづつが淘汰され、順次性欲と食欲が僅かに残存し、最後には食欲も減退ともに減退しながら生命の減縮行為の果てに、死が訪れるとはアウシュヴィッツの経験者が語るところである。
 肉体の緩慢な死の果てに生じるような経験が違った意味で、ヒマラヤ山麓では、旺盛に生きると云う日々の簡素な暮らしの中で、簡素であるゆえにこそもたらされた精神と肉体の平衡、無限の緊張を秘めた平衡感覚の天秤にも似た均衡の中で、文明が植えつけた諸欲というものを淘汰するのである。
 諸欲の淘汰と均衡はこれだけでは終わらずに、危うい弥次郎兵衛か虹の浮橋のような、日常と超常界とをつなく夢浮橋を通って、このとき自然が橋掛かりに朧げに姿を仄見えさせながら風のように渡ってくる、まるで夢幻能の云うように、自然との出会い、遭遇が語られるのである。

 茶室で主客の出会いが滞りなく終わるかに見えながら、最後に水差しを抱えて退出するとき、あの無限に続くとも思われた一期一会の茶会の袱紗捌きの音や、柄杓に映し出された主客のこころのもてなし、主客のそれぞれの思いを引き取り引き継ぐように呟く釜の松風の音の余韻など、終わるともしれない一期の終わりが果てようとした刹那、永遠を囲い込んだと云う思いが自負にも似た感情とともに高まりつつ去来し、主人はもう一度席に戻って自腹と云う所作を繰り返すのだと云う。

 繰り返しの所作の果てに今度は一期が記憶となって主客の相対が再現し、取り込んだつもりの永遠によって反対に茶室の空間が反って囲繞されてあることを理解するとき、終わりと云うものはないと云う思いをしみじみと反芻する。
 茶道が誕生した時代に於いては、相対する主客の幾人かはその後二度と相まみえることはなかったであろう。
 
 力強くペダルを踏み込みながら、ペダルを踏み引き上げると云う下肢の所作の他に何が必要とも思われなかった。ベテランの修道女には恐るべき不敬と思われたものが、あの時、豊饒として感じられた。豊穣としてあることのこの感じ!この感触!

 ――つまり繰り返す、と云う行為が尊いのは、繰り返しの果てに、永遠に似た何ものかを感じるからなのではないのか、永遠に似たものが顕現するからではないのか。
 日々の平々凡々とした些事の繰り返しの中に、所詮人生の出来事とは偶然性や恣意性で終わってしまうことが多いにしても、稀に、自然が、不意に、遭遇にも似た経験の形をとって姿を現し、微笑みのなかで異界に引き上げる、時間の特権性や神隠しの伝説もまんざらの途絶えてしまった古代の消息と云うわけではないのかもしれない。
 
 花鳥風月の自然とは、かかる自然概念の頽落した姿ではなかったか。自然の微笑みは、その陰のささないところ、その蒼ざめた仮面は懐かしい死の風貌ににている。