アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ヴァージニア・ウルフ『歳月』について――黄昏のロンドン・11 アリアドネ・アーカイブスより

ヴァージニア・ウルフ『歳月』について――黄昏のロンドン・11
2019-04-15 09:44:44
テーマ:文学と思想


 ヴァージニア・ウルフの小説にしては、平易で読みやすい『歳月』は、反面、もどかしいほど、難しい。その難しさは、彼女の実験的な小説作法や難解な方法論の実践や言説的開陳と云うよりも、茫漠とした実人生に、私やあなたの人生に、この小説が似ていると云うことだろうか。

 1880年代から1930年代に至るバジター家の人々の一家一門の三世代に渡る、群像風の年代記、登場人物が多すぎてメモを取りながら出なければ本当には読めない、入り組んではいるが、些細な出来事や、出来事以前の連想や印象の連なり、それでも月日は容赦なく流れ去っていって、ある者は鬼籍に入り額縁入りの思い出と化し、ある者はこの世に生を受けて未だ完結せある生の意味を問う!しかしそれに応える答えはなくて、例え別な人生があったならばと、感傷と感慨に暮れる、そう云うお話である。もしこの茫漠とした思い出と印象と連想の連なりを偶然を装って時系列に配した偶然の物語を一言で要約するならば、この物語の中では異邦人として登場するポーランド貴族のなれの果て、ニコラウスと呼ばれる男の、物語の掉尾の晩餐会に出てくる、完結しなかった演説に全ては象徴されていよう。
 この物語群像の登場人物たちは自分と云うものが分からず、しかし問うことを諦めもせず、日常の折節に、あるいは知人や友人たちとの偶さかの邂逅のなかで、瞬間、時を超えたものの在処に強烈な暗示を受けながらも、啓示は啓示で、所詮はひらめきに留まり、それを深めることができない。語り合おう、深めるために久しぶりの出会いを利用して対話を深めようとするのだが、何時も気まぐれのように、隣の者がそれとは無関係な話題を持ち出したり、誰かがテーブルの上の水をこぼしたりと云うような些細な偶然事に妨げられて、常に、何時も、真実の対話は成立しない。登場人物たちは、不甲斐なくも、それを外的な要因のせいにするのだが、本当は彼らが何物でもないからなのだ。彼らは時が熟してドラマが成立する!と云う根気に欠けている。

 ここでこの小説と対比的に考えられているのは、――例えばシェイクスピアのドラマである。『ハムレット』もまた、自分が何物か分からない人生の未熟者の物語である。シェイクスピアが語る青年ハムレットもまた、些細な偶然に妨げられて真実の到達できない。到達できないだけでなく、彼の場合は空想や妄想が災いしてあらぬ悲劇を巻き起こしてしまう。その結果国内の騒乱に常時て隣国のリアリズムに王国を乗っ取られてしまうのだが、最後に弔いの号砲によって死者たちの魂は鎮められる。賛否はあるにしても、何事もなしぬ無為徒食の輩が終には王者として死ぬ!と云う物語なのである。ドラマは人物に運命を与える。性格と輪郭を与える。『歳月』の登場人物たちには性格がない。輪郭がない。運命がない。

 ウルフの『歳月』の登場人物たちは、七十代の老女になっても悟り切れず、別のあり得たかもしれない人生に憧れ続ける。真実を求めて、自己とは何かという実存の手がかりを求めて。にもかかわらず、彼らは問いを、答えを得ることはできない。
 『歳月』に痛ましさは、彼らの何れもが志を得ることができない、と云うことにあるのではない。彼らにもまた幼年期があり、固有の青年期があった。そのとき震えるような慄きの感性で捉えた人生の局面との接触、言葉にならない生の間隙に垣間見片鱗を見たと思わせた感激がもはやないと云うこと、――別様の言い方をすれば、彼らの一人一人が青春に酔いしれたころの自分とは別人になってしまっている、という点にある。

 痛ましさの極点は主要登場人物の一人であるエリナ・バジターが――父親の介護と家族の世話に生涯を紛らわした独身女性が人生の黄昏が漂い始める頃、放浪の異郷の青年の、生の構えの清冽さに感動し、あと二十年若ければ結婚を望んだだろう!と、遂に出会えなかった幻影の輝きを垣間見る瞬間であるだろう。この万事控えめで、自己を主張することを嫌った、まるで床の間の置物のような古びた遺物、骨董品が、ものを感じもするし意思も備えていた、立派な人間であったことを読者が再発見?する件である。
 人生が不完全で未完結であるがゆえに、私たちはエリナに共感するのである。自分の人生にあまりにも似すぎているがゆえに!成すべきことを成し得ず、夢や空想を禁句の如く禁忌し続けた人生を!それが人生と云うものではなかったか。ヴァージニア・ウルフの知的で衒学的で取り澄ました小説は、晩年において、人生と等価と思えるばかりの凡庸さの地平に降り立ってきた。

 夜通し続けられたバジター家の晩餐会は夜明けを迎えて一応の成功を納めたと云ってもいいほどだった。パトロンである一家の主婦は別れを言いに来た若い世代のカップルに取り囲まれて花束を贈呈される。その感激を妹は姉のエリナに伝えようとするのだが、エリナは通りの向かい側の家の玄関に乗り付けてドアの陰に消えていった、見知らぬ若いカップルの映像に気を取られている。言葉にならない感慨、彼女はまたもや、別の人生を夢みていたのか?姉妹の意志は伝わっているようで伝わらない。すれ違う。

 読み終えて思うのは、些細な人生のつまらぬ偶然の連なり事とも思える時の経過が、例え何事も成就することなく流れていたにしても、それは時によっては奇跡のつらなりとも思える回顧を、人に与える、と云うことだろう。まるで自分の人生が虚無の深遠に聳える尾根から尾根へと飛んできた、飛び石の人生のように思えることがある。ひとは驚愕のようにそれに思い当たる!
 人は老い、老いが網目のような皺と襞を額や目じり、頬や首筋に刻む。しかし人は言わなくても老いが美しく感じられる時がある。あるいは流れる時の研磨が風雪に洗い流され、晒されて波打ち際に投げ出された流木のように美しく、肌理を見せて風格に輝く、と云うことだってあるに違いない。その例がたとえばエリナ・バジターの場合なのである。

 晩年のヴァージニア・ウルフは『歳月』を書きながら、時に自分をエリナと混同することがあったに違いない。