アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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シェイクスピア『ウィンザーの陽気な女房たち』――黄昏のロンドン・15 アリアドネ・アーカイブスより

シェイクスピアウィンザーの陽気な女房たち』――黄昏のロンドン・15
2019-04-27 22:51:22
テーマ:文学と思想



 シェイクスピアでも評判が芳しくない作品のひとつ、『ウィンザーの陽気な女房たち』、――こんなことを書くと欧米風の喜劇が分からない、などと笑われそううですが、ここではエリザベス朝の価値観や人生観を読み取ることができます。
 第一に、結婚をめぐって、――村随一の魅力的な娘、アン・ペイジをめぐって、三人の男が現れる。男と云うよりも、結婚を選択する場合の三つの方法、方向、つまり類型である。
 一番よくできているのは、スレンダーと云う村の有力者を背景に持つ、意志薄弱の男、しかし彼には社会的身分の他に経済的な基盤が保証されている。アンの両親も村の知識人である牧師にして校長先生でもあるエバンズ氏も、大いに乗り気である。
 二番目は、フランス人の医師、キーズである。彼が果たす役割は付随的であるが、彼には何とも知れないクイックリー夫人なる、取りもちづきの、八方世話焼きの使用人兼世話役のような婦人がいるが、頼まれやすいところから、あらゆる事情に通じることになっている。それでも個人的には、キース医師とアンの婚約を望んではいる。
 三番目が、フェントンなる得体の知れない貴族の末裔である。エリザベス朝時代とは、時代の支配層が貴族階級から市民階級へと移り変わっていった時代とされているが、そうした時代背景を重ねて読むと、彼にしてもかの有名なる人物再出法による主人公であるフォールスタッフにしても、市民階級から嘲笑され、日陰に追いやられかねない人物たちのひとりであったことが分かる。
 フェントンがアン・ペイジに近づくのも、金銭目的である。違うのは、フォールスタッフは散々笑われ者にされた挙句に、テムズ川に鎮められたり、森の妖精たちに仮装した市民たちから抓られたり蝋燭の火で焼かれたり、散々な目に合うのだが、彼だけがこの劇の雑多な群像の中で、愛なき結婚生活の不毛さに気付いていて、最後には目出度くアンとの婚約を勝ち取ることができた。
 つまり今日の眼から見るならば、市民階級の勃興と近代化はいっけん、階級間格差の均等化の方向へ向かうように見えながら、実際は富や社会的なステイタスがものを言う時代であり、他者にとっての利用価値のない愛などの観念については抑制的であることが暗示されている。
 その結果、市民社会とはどういう人間群像によって形成されることになるかは、市民社会を牛耳る治安判事――警察と裁判官を兼ねたようなものか――シャロ―であるとか、その甥の家柄が良いと云うだけが取り柄の意志薄弱もののスレンダー、市民社会門閥主義を補完する牧師にして学校長であるエバンズ先生等の、どこか見たような気がする俗物たちを輩出することになる。
 またかかる市民社会門閥主義を補完するものとしての市民階級の代表としてページ、フォードなる人物が配されているが、彼らの一見滑稽で歪んだ性格は、――シェイクスピアが自覚的に語ったわけではないが、私有財産制と一夫一婦制を神聖視し、固定化することからくる、嫉妬深さや妬み、嫉みなどの負の要素を敗退させている。つまり彼ら市民階級が太っちょのおでぶさんフォールスタッフの中に見出した批判像は、半ば自らの自虐像でもあったかのようである。それほどまでにも彼らのフォールスタッフに対する憎悪は理不尽であり、行き過ぎが感じられる。


 以上の粗筋は、通常はこの戯曲の脇物語系に属するストーリーであることを断っておかなければならないだろう。
 通常は、フォールスタッフと二人の「ウィンザーの陽気な女房たち――クイックリー夫人も加えれば三人――ご繰り広げる、お財布がらみの浮ついた情事劇なのですが、お財布がらみと云うのは、もともとは経済的に困窮したフォールスタッフがお金持ちの町人婦人に近づいて、金も色も共々ものにしようと云う、手前勝手な妄想と空想に端を発し、そうああらじと、全く同一分のラブレターーー宛名だけが異なっている――を貰った二人の婦人が、ペイジ夫人とフォード婦人が、まんまと誘惑に乗ったふりをして、散々に懲らしめようともくろむ、これに夫の二様の疑心暗澹と嫉妬心――表面的にはフォード氏によって戯画的に演じられることになるのだが――が加わって、伝令役の床几の駒にはクイックリー夫人や小姓のロビンやアンの弟のウィリアム・ペイジなどまで狩りだされ、特に最後の森の変装劇ではウィンザーの町中の者たちまでが参加した気配で、元々は高貴な身分であるフォールスタッフを散々に遣り込める仕儀となる。
 可笑しいのは、人の良い彼が行動的で機知にとんだウィンザーの二人のにょうぼによって仕組まれた邸宅での逢引劇の誘いに三回までも乗ってくる、という好色漢ぶりだろう。つまり下らぬプロットも複数回繰り返されることによって面白みが出てくると云うのは、喜劇の常套手段と云ってしまえばそれまでなのだが、この他にも実直だが正直者の夫を差し置いて浮気をする元気な女房たちであるとか、嫉妬深いのだけが取り柄の商家の呑気な旦那様とか、欧米では流行った規格的喜劇系のキャラクターであるらしい。
 本作が当時の喜劇の類型の決まりごとに従って創作されたことは確かに当作を凡庸な作品が与える印象に平準化したかに見えるのだが、実際に仔細に考えてみると、「陽気な女房たち」の男性蔑視は相当なものである。物語を読み終えて見れば旧態型の騎士フォールスタッフを遣り込めることよりも、夫と彼に代表される男社会への復讐こそシェイクスピアの心願ではなかったかとすら思えるほどである。また彼女たちに対面する男たちの生態のくだらなさ、醜さもまた、笑いで済ませるには程お遠いほどの辛辣さと、怒りを越えた残酷さが秘められているように思う。
 さればこそ、こと終わりて後の没落貴族の末裔フェントン青年が言う次の台詞がことのほか厳かにも響くのである。曰く、――

”事情は僕から申し上げます。
お互いの間に愛情のない結婚を
あなたがたは無理やりアンにお強いなさった。
が、実は、アンと僕とはとうから二人で約束していて、
今ではもうどんなことがあっても離れられなくなっていたのです。
このアンの咎はむしろ立派なもので、
こうした偽りは姦策とか不従順とか不幸とかいう
汚名をつけられるべきものではありません。
いま無理強いの結婚をすれば、
当然あとで神に背いた呪うべき長い月日を送らなければなりませんもの。”(第五幕第五場)

 シェイクスピアの恋愛観は、好きだから互い街の愛を貫き通したい、というのではない。そうではなく愛がそれを自分に命じるのだから、愛を体現し愛を身に纏うことは神の摂理に適うことなのである、という聖婚の考え方に基づいている。愛は私利私欲の産物なのではなく、それを超えたところに求める彼岸的な恋愛観を、さて、無神論者の国である日本人は自らの世知に闌けた功利性を誇る前に応えなければならない。

 常々思うことだが、シェイクスピアには独特の女性観があって、特に『十二夜』や『冬物語』のヴァイオラや女王ハーマイオニの背後には、歴史を生きた具体的な女性像のある種の体臭をすら感じ取ることができる。彼には理想の女性がいて、高貴な身分であるがゆえにただ仰ぎ見るだけの存在であったのだろうと、私は想像している。そして他方において、そんな長い愛の人生を生きてみてシェイクスピアが味わった人生の落胆も深かった。そんな述懐が彼のロマンス劇や喜劇と呼ばれる作品群の中には遠い木魂として揺曳しているように思えるのは私の錯覚であるか。