アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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トマス・ハーディの文学――黄昏のロンドン・19 アリアドネ・アーカイブスより

トマス・ハーディの文学――黄昏のロンドン・19
2019-04-29 06:24:59
テーマ:文学と思想


 トマス・ハーディの文学と云うと『ダーバヴィル家のテス』、『遥か群衆を離れて』などが有名ですが、特に前者は私にとっては個人的にもとても大事な作品です。
 と云うのも、愛の確証のためには互いに秘密を持たない、つまり背景には神の現前での明証と云うことがあると思うのですが、ダーバヴィル家のテスの愛の心情告白は受け入れられませんでした。背後には、ピューリタン的な厳密な倫理観、狭く言えばヴィクトリア朝的道徳観とも呼ばれた形式主義とリゴリズムがあったのです。
 もちろん、恋人のエンジェルの残酷さを責めるわけにはいきませんし、根本には「ダーバヴィル家の」とことわりがあるように、ありもしない名家の幻影、それに操られたものの非喜劇があったのです。ここの私は「幻影」と書きましたが、名門家門意識だけではなく、ヴィクトリア朝期の倫理観も道徳も幻影の一種であったろうし、広く言えばキリスト教的なものの考え方自体も幻影にすぎないのではなかったか、と言いたいのです。
 好青年エンジェルの決断が持つ残酷さについては賛否もあるでしょう。しかしそれ以上に大事なのはテスが抱いていた「聖婚」の考え方です。つまり真実の恋人にまみえるためには処女と云う生物の現体形を維持していなければならないと云う考え方にテすもエンジェルもまた囚われていたことです。
 私のトマス・ハーディ理解は通常とは少し異なるかもしれません。『ダーバヴィル家のテス』は貧しさゆえに転落していった処女の物語でも、身勝手さを自覚しない男社会の倫理観に翻弄された少女の物語でもありません。問題なのは彼女自身の内面に巣食った、伝統的な宗教観、共同社会を生きていくうえでの倫理観、道徳観にあります。テスは知識人ではありませんから、己が社会的・宗教的な条件を対象化して見ると云うことができませんから、時代の犠牲者になるよりほかになかったのです。テスだけではありません。一般的に云えるのは、言葉によって対象を限定的に捉えることはできないもの達は――つまり庶民は――時代の、あるいは歴史の犠牲者となりがちなのです。この点はなんら彼らに責任があるわけではありません。

 トマス・ハーディの文学の魅力は、自らの囚われである宗教的な倫理観や社会的な道徳観に囚われつつも、これを先鋭的に対象化して見ることはなく、常に犠牲者としての生を追わざるを得ない、最下層の庶民の立場に身を置いて、頽廃した形式主義に堕したヴィクトリア朝期の倫理観を身をもって生きたことでしょう。彼がより知識人的であったならば、ルソーのような文学により近づくことができたかもしれませんが、知識人の哀愁の中に庶民の哀歓は含まれてはいないのです。ハーディの文学の魅力は、彼が到底知識人ではあり得なかったこと、知識人であることとは距離を取らざるを得ない人間であったことに寄るのだと思われます。
 こうした彼の感性がハーディ文学のもう一つの魅力、つまり歴史も宗教も突き抜けた、ローマに侵略される以前の、真にブリテン的ともいえる原始性を幻想の中に描く、幻視者としての文学への道を開いたのです。

 トマス・ハーディが彼の創造した人物の中でも最も愛したと思われるテスを、最後には南イングランドの原野に開けたストーンヘイジの傍らになにゆえにか葬ることにしたのかは、なかなかに難しく小説や映画を観ているだけでは解り難く、先史的なブリテンの歴史を少しでも学び、巨大なストーンヘイジの巨石の傍らに身を置いて見る時、彷彿と沸き上がってくるものがあるのです。