アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ストーンヘイジ幻想――黄昏のロンドン・20 アリアドネ・アーカイブスより

ストーンヘイジ幻想――黄昏のロンドン・20
2019-04-29 06:37:49
テーマ:わたしの住んでいる町

 
 私たち日本人が通常、英国的なものとして理解しているものはエリザベス朝期以降の歴史的事象に限られます。とりわけ産業革命革命以降の、この国が歴史に果たした世界史的な意義において、話は尽きるのだと思います。
 ところが、前世紀の分かれ目のミレニアム期のころ、トマス・ハーディと云う文学者がいて、彼が一連の南イングランドの風土に戻づいた文学を描いたことの意義はとても大きいのだと思います。同じ南イングランドを描いても、彼以上に文学史的には高名なジェイン・オースティンの文学とはかくも、ここまで違うのです。
 私はハーディの文学を読んで、国民文学と云うものを考えるようになりました。ハーディはロマン主義的な文学でも自然主義的な文学でもなく、一個の文学者が一国の文学史に名前を投づることによって、先史時代のブリテンと現代イギリス社会を繋ぐと云う、離れ業をやってのけたのです。こうしたことがオースティンにできたでしょうか。
 トマス・ハーディが彼が創造した最愛の人物の最後をここ、ストーンヘイジで終わらせたことの意義は、彼女の魂を救うものはキリスト教の神ではなく、先史時代の古ブリテンの自然であったことがよく分かります。
 日本人としての私も同様の考えを数年前から抱くようになり、明治期の国家神道以前の日本神道の重要性を認識するようになりました。勿論、先鞭をつけているのは柳田国男折口信夫らの民俗学や古典文献学の泰斗たちですが、そう言いう意味では何も新鮮味とてないわけですが、私の認識は階級社会を形成する以前の、なにも農耕社会に限られたものではないと考えているのです。

 

 

 

 

 

 

 


ストーンヘイジのかっての想像図(博物館の資料より)

 

 

 

 

 


ストーンヘイジの想像図(同博物館の資料より)

 

 

 ストーンヘイジの付属博物館より往時の復元図をご紹介しましたが、ハーディの『ダーバヴィル家のテス』を読む限りでは、19世紀ころまでは遮るものとてない、いまあるような広大な草原ではなく、鬱蒼として閉ざされた森林に覆われていたことが理解できます。テスは、恋人のエンジェルと人目を忍んで森の中に逃れ、そこで永遠の時とも神話的とも云える数日間の日々を過ごし、ストーンヘイジまで逃げ延びたところで遂に待ち受けた官警たちの手で、いまは十二分に生涯を生きられたものとして、自若として囚われの身となるのです。少なくとも人の命を殺めたのですから、これ以外の在り様とることは不可能なのです。
 大草原の中に屹立する古代モニュメントの意識と景観は、我々現代人が通常古代的なものに対して抱く恣意的イメージである可能性が高く、ハーディの時代においてだけではなく、このあたりは先史的な古代においても鬱蒼とした森におおわれていたのだと思われます。つまり黒く森林に覆われた尽きることのない古代の森の一角が、そこだけが人の手で開墾されて、一部陽が射すような空間を産み、人の手で祝福された円形の空地のなかに、古代人は永遠の祭儀の場を設けたのだと思います。つまり古代人が永遠と云うものと対面した初経験のばであった、と考えられるのです。
 ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーに、現存在であること、つまり人間であることとは、森林の闇夜の中で、そこだけが開けてあるという在り方だ、という記述をかってどこかで読んだ記憶があるのですが、宇宙開闢の闇夜から、この世を開け切り取ると云う真に人間的な、能動性を帯びた行為の中で、人は人となるのだと、実存主義の哲学は教えているように思われます。
 つまり古代人の初経験に相当するものを、私たちは自分史の中においても、一個の経験として得るものだと思うのです。
 ダーバヴィル家のテスを描くハーディの筆致には、飛びぬけて彼女が美人だとは書かれていません、映画のナターシャ・キンスキーのようには!
 彼女の魅力は、どうかすると、作者に寄れば、――五歳のころの幼児の面影から十二歳のころの少女のころの素朴さを含み、十代の半ばころの初々しさから、そして施熟した女の時代を経て、最後は怖ろしき殺人者としての非情な相貌まで備える生涯の地層的多面性が、一個の容貌のなかに、同時に凝縮して現れると云う、動態としての美しさではなかったか、といまは考えているのです。
 どうしてこう云うことが起きるのかと云えば、人間と云うものが時間的な存在である、と云うことなのだと思います。時間性の中でも現在と云う時制は日常生活の中では卓越していますが、日常を越える経験としての時間性の中では、時間は歪を持ち、歪の中で容貌も容姿も面影もまた歪んで揺れ動きます。ちょうど潺に映した自らの流れていく相貌のように!動態としての時間とは、瞬間と云う時制の中に、あらゆる時間が同時に現れることなのです。現象し現成する瞬間とは、各々のシークエンスに於いては、比喩のように、移ろい逝くものの喩えに過ぎませんが、移ろいゆくものと移ろいゆくものの瞬間の間に、ちょうど雲の割れ目に青空の片鱗が顔を覗かせるように、不意に永遠というものがその怖ろしい姿を現すのです。
 経験としての愛の時間とは、各々における二次元的絵画美や三次元的空間的な立体画像としての、彫刻像としての美に感動するわけではありません。そのような美は捉えてもやがて時間の練磨と腐食作用の中で淘汰されて行かざるを得ないものなのです。むしろ瞬間の中にこそ、移ろい逝くものの比喩を留め、無常と非常の間にこそ、永遠なるものの住処があると云う考え方は、何と人のこころを和ませるものでしょうか。
 移ろい逝く瞬間のなかに、生涯の全ての相が同時に現れ、現勢する時間が、ちょうどヴァルター・ベンヤミンが残した美しい譬えのように、讃美歌を歌いながら燃え尽きる天使たちの光景のように、無常なる時間の中で愛の経験は初めて、命と云うものを天啓のように、天授と云う概念の元に、受け取るのです。