アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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映画『永久の愛に生きて』とオックスフォード――黄昏のロンドン・24 アリアドネ・アーカイブスより

映画『永久の愛に生きて』とオックスフォード――黄昏のロンドン・24
2019-04-29 15:47:14
テーマ:映画と演劇


 オックスフォードを語るのに題材は幾つもあると思うのですが、いま思いつくのは、アンソニー・ホプキンズとデブラ・ウィンがーの主演による映画『永久の愛に生きて』(原題Shadowlands)です。
 この映画、小粒ながらよくできた映画ですが、――出来過ぎのきらいさへ感じさせる小品ですが、素直に見ればよいのです。
 とにかく、オックスフォードは尖塔の町、聖歌隊の響きが美しく、また、ヒロインのアメリカ人女性詩人のイギリスへの帰依を決定的にする、イギリス国家を講堂内で歌う高揚感が素晴らしい。

 もともとイギリスの大学町における教師とは聖職者と同様に独身であることの伝統がありましたから、C・S・ルイスが女嫌いの学究として長年月を過ごしたことについては特異でも特殊でも、あるいはまた個性的な選択でもなかったのでしょう。
 これに加えてイギリスではプラトニズム由来の同性愛の伝統もありましたから、オスカー・ワイルドの事件を実際以上に過大に評価しなくても良いのかもしれません。
 そんな素朴で朴訥な独身男が、裏動機を秘めた詩人でアメリカ女の積極的な求愛に絆されて――彼女は『ナルニア国物語』のファンである――だまされたつもりで形式婚を結ぶうちに、嘘もそのうちに本当の愛になった、という面があったのかもしれない。なにもそこまで穿った考え方をしなくても、作家と愛読者の関係が単に、深まり合っていったのかもしれない。
 やがて彼女は骨髄癌であることが分かる。彼女は病名を既に知っていたのかもしれない。寄る辺ない詩人と云う職業に加えて彼女は子持ちですらあった。純粋な恋愛の動機でなかったことはあるのかもしれない。ルイスにとっては、迷い鳩のように一家に迷い込んできたアメリカ女は柵も何も関係なく、それゆえにこそイギリス人の女性とは異なった在り方で見えたのかもしれない。その子持ちの迷い鳩が余命いくばくもない命であると云うことが分かる。ただでさえ感受性が豊かで空想を好む性格であったろうから、同情心も一入であったろう。漱石も書いているように、同情心と愛情は最終的には見分け難い。

 私にこの映画を思い出したのには二つの理由がある。
 ひとつめは、デブラ・ウィンがーについて。過去に彼女のヒット作となった『愛と青春の旅立ち』と云う根性映画を観ていて、その差別意識がとっても厭な感じの映画だった。素直に素直に見ればよい映画なのだが、私には何かアメリカ社会の生々しい優勝劣敗、適者生存の競争社会の在り様が、あからさまに美化されているようで嫌な感じの映画であった。嘘だとは思わないけれどもここまでやらせの感覚を大っぴらに表現できる社会の存在が嫌だった。
 ただ厭な映画ではあっても、二人のヒーローとヒロインの慎ましさには身をつまされた。まるでジェイン・オースティンの小説にもつながるような品格があって、とりわけデブラ・ウィンガーの、若いのに生活感が滲むような女工哀史の解れ髪が印象に残った。
 彼女の暗さは、ユダヤ人として生きた彼女の生きざまにあるのだろうか。アメリカ人女優としては珍しい、暗い雰囲気がとても気に入った。その暗さが、意志によって反転すればこの映画で描かれたジョイのように、半ば押しの強さとして、半ば朗らかさと積極性を装った内面性として現れるのだろうか。私は映画そのものよりも女優としての人生の方に興味を抱いてしまった。(にもかかわらずその後も彼女について研究するわけでもなく、知ることもなかった。)
 結局こう云うことなのだと思う、――長年月に渡る人生の喜怒哀楽を閲し、ある程度は度胸もついた年増の女が、起立してイギリス国歌を斉唱する風景に打たれる!長年月に渡って固い殻の中に閉じ込めて来た影の国を――Shadowlandsの意味の由来がここにもあるか――原題の清冽な思いでj迸らせる!人生の意義はここに極まる!と云ってよいでしょう。

 二番目の思い出は余りにもつまらぬことなので、最初に言い出さなければ良かったといま後悔する。
 この映画を観て以降、彼女が住んだ半地下のアパート、――半地下の住まいは最低レベルの暮らしを意味するらしい――を懐かしく思った。つまり私が今回泊まった宿が通りに面した半地下にあったのである。映画に描かれたように、半地下のドライエリアに面した窓のカーテンを引くと、通りを横切る人の腰から下の下部が見えるのである。何も私は変な意味で言っているのではない。この世と云う名の世俗的世界を、見上げるようにして生きていかなければならなかった視線がとても懐かしいのである。
 ところで映画の方にまた話題は戻るのであるが、イギリスへの帰化を希望しながらも何らの手立てもない。敬愛する作家が独身であることを理由に妄想に近いことを空想し、実行してみる。なぜなら彼女は最低限度の生を生きていて、失うものが少なかったから。ところが相手は彼女の境遇に思いのほか同情してきた。まるで最近流行の援助交際擬きの印象すら与えかねなかったが、二人はもはや気にしない。むしろ愛のプラトニズム擬きの思いが、世俗の道徳律の境界域まで押しやられたことによって、中世の宗教学者の感性を時代に竿ささせ、意固地にさせたのかもしれない。
 結論的には二人は結婚した。そして病名の予告通りあっけなく彼女は死んだ。ルイスもまたその三年後、こちらもまたあとを追うようにこの世を去った。
   ジョイが語ったように、悲しみもまた楽しき大いなる思い出のなかの一部、私もそう思う。