アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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イギリス的なものとE・M・フォースター『ハワーズ・エンド』、ヴァージニア・ウルフとの関係、ならびに。。。アリアドネ・アーカイブスより

イギリス的なものとE・M・フォースター『ハワーズ・エンド』、ヴァージニア・ウルフとの関係、ならび
2019-05-01 10:52:55
テーマ:文学と思想


 二つの青い異なる価値観の間にいかなる平衡を生み出せることが可能か。E・M・フォースターの『インドへの道』にしても、本作においてもそうしたテーマを追求したものだと言われている。
 しかし私見に寄れば、彼の意図せるテーマは成功しているとはいいがたい。実は相異なる二つの道に相交わる地点などないのである。ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』においても『灯台へ』においても、二つの相異なる道に如何にして道を架けるかというテーマは通底したものとして既にあるわけだが、ウルフはそれをヴィジョンとして、詩的言語のめくるめく光彩として語ったに過ぎない。
 フォースターの『ハワーズ・エンド』は、二つの根本的に異質な価値観のぶつかり様を、様々に、生々しく、描いている。

 実のところフォースターの『ハワーズ・エンド』は私にとって評価が難しい本である。主要な語り手の姉妹は、――明らかにオースティンの『分別と多感』を思わせる、古典主義とロマン主義を思わせる二人の行き方が齎す、悲劇と喜劇!――喜劇と云う言い方は、あんまりだろう!――実際に、人が死ぬのだから。貧しい文学青年がひとり。そのこの世では志を得ない彼に、ふと、憐憫の情を齎した、古典主義者にして理性的な姉の同情心と博愛心とが、情熱的で多感な妹の運命にまで影響を及ぼす。その志を得ない青年とは、私には『ダロウェイ夫人』のセプティマスを思わせる。セプティマスは窓から身を投じることによって、ある種のテレパシイー、詩音ピ的な在り方で豪華で華麗な晩餐会のホステスとして取り仕切るダロウェイ夫人に影響を及ぼす、怪しい切れそうで切れない赤い筋を曳いた運命の糸巻きぐるまのように!あるいは運命のアリアドネの糸のように!

 私見に寄れば『ハワーズ・エンド』悲劇、――と云うよりもドタバタ騒ぎの原因は、姉の価値観の中に潜んでいるダブルバインドにある。彼女はその点に最後まで気づかない。作者であるフォースターも自覚的であったかどうかは疑わしい。
 理性的、理知的な判断を優先し、本性に起源する感性や感情を抑圧しようとする、利他的博愛主義が、一人の男をありもしない幻想を抱かせ、やがて破滅する。ロマン主義者の妹は、一見、姉たちの生きる社会の価値観に逆らうような生き方で一部「復讐」し、一部「とりなそう」とするのだが、感情を言葉に「変換する」技術を持たない彼らには如何ともすることができない。あの不幸な文学青年もまた言葉への変換技術の習得に「堪能」であったならば死ぬことはなかったのである。

 姉の劇的と見える精神の回心に契機を与えるのは、このままでは自分の身代わりに――とは彼女は少なくとも意識の世界に於いては気づいていない――精神の破壊と死が迫ったとき、決然と決断する。つまり、ここに至って大事な時は、ひとは理性的判断や知性によっては決断しないのである。かといって、それが感情的な爆発と云うのでもない。言葉自身が表に出てきて己自身を語るのである。
 姉は、ロマン主義者の妹が言語に変換しえなかった無意識を言葉にして語る。夫を前にして語る彼女の感情の爆発こそがこの物語のクライマックスであることは間違いない。二つの相異なる道に相交わる地点など、そんな綺麗ごとなどこの世には存在しないのである。存在しないからこそ、セプティマスも志を得ない本作の青年も価値観の谷間で死ななければならないのである。

 ウルフとフォースターの違いは、それを――と云うか、あの世とこの世の違いを詩的言語として語るか否かの違いである。
 『ハワーズ・エンド』には、多くは語られないネガ型の人物として、ハワーズエンドの当主、老婦人が登場する。
 老婦人と姉妹の関係は、ふとした海外旅行の偶さかの偶然による、――気が合うと云うのかしっくりすると云うのか、血縁を越えた神秘性が支配している領域である。つまりかかる感情は日常の時間に属するものではなく、旅の時間、あるいはこの世を超えた超越的な時間に起源することを暗に説明している。
 この物語が意外な展開を見せるのは、当該の老婦人が物語百ページのあたりで突然、というか――あっけなく!死んで、遺産を血縁関係の者たちではなく、旅の行きずりに触れあったに過ぎない、ヒロインに残すしたいと云う遺言を残すことだろう。遺言は残された遺族の間に様々な波紋を残しはするものの、通常の遺産相続争いとは異なって、「団結」が生じるのである、皮肉なことに!――つまり、彼らは「団結して」この遺言を、正式でない鉛筆による走り書きを無視することにして、長年月が経つ。
 ところが死者の眠れる意思は、彼女の、この秘められた願いが成就するまでは、「荒れ狂う」?――つまりハワーズ・エンドと云う思い出の詰まった田舎の家屋を見ず知らずの姉妹に譲りたい、と云う彼女の死せる意志が成就するまでは、陰にも陽にも作用する。まるで各自の運命を操る死せる女神のように。
 『ハワーズ・エンド』とは、このように読むとオカルト小説じみた一篇なのである。

 結局、ハワーズ・エンドは姉妹の手に残されることになる。死者だけでなく、家屋自身にもそれに見合う意志のようなものがあって、それを望んで、遺産継承者のそれぞれの運命の往く先に様々な障害や障壁を設け、あるいは破滅させ、もの自身はもの自身に備わった意志を運命として成就し貫徹する。

 ヴァージニア・ウルフは、「女性は場所に固着する」と書いた。女性は思い出に固着する!と書いても彼女の場合同様な意味を持っただろう。
 フォースターは、年長の敬意を払わなければならない友人としてヴァージニアの世界の外周部にあったのだと思う。実際の付き合いとしては頻繁にではなかったが、そんな彼をブルームズベリ―グループの一員として錯覚しかねないほどのテーマの共通性は、やはりあったと言わなければならない。
 想えば人と人との和合、価値観の異なるもの同士の和合のテーマは、シェイクスピアにおいても、ジェイン・オースティンにおいてもイギリス文学に固有なものであった。解り易い事例では『ロメオとジュリエット』や『ベニスの商人』において。あるいは『オセロ』や『リア王』の場合においてはより深刻な形をとって!
 それを彼らはどのように解いたのか。――例えば『冬物語』や『十二夜』などの、あるいはオースティンの『高慢と偏見』や『説得』に於けるような、女性に内在する無限とも云える大洋的包容力の大きさに於いて?謙虚さや従順さを学ぶことに於いて?あるいは『ハムレット』のように、己の運命の自覚をとおして性格としての己の輪郭を生に与えることに於いて?
 むしろ二十世紀の今日を生きた作家であったフォースターやウルフに於いては、古典文学が生み出した運命と性格劇の要素は大きく後退したとみなさざるを得ないだろう。ウルフは人間の意思を越えた詩的言語のヴィジョンとして、フォースターはものの世界に固着した、まるでケルト神話を彷彿とさせる土地の精霊として語る。その手法は現代的と云うよりは、余りにも中世的なのである。
 つまり私の結論はこうである。――文明はテクノロジーと唯物主義と云う名の経済的豊かさの発展にもかかわらず、もう一つの「中世」とも呼ばれ得る時代へと突入しようとしているのではないのか、少なくとも言語と文学の問題を通して私にはそう見えるのである。

 二十世紀と云う時代は、終わってみれば二度の世界大戦と、一個のホローコーストとそれに付随する多くの殲滅の思想が事件としてだけではなく言語として語られ、原爆投下に見られるような、罪と罰の間を切り離す楽天的ともいえる現代思想を産んだ、そういう時代であった。(つまり二十世紀以降の時代とは、思想を書物の形では語らず、生の歴史的事件として語る時代になったのである!)加えて異常な天変地異現象は歴史的にも水準を超えたものであり、今後を考えると暗澹とした気分になる。
 翻っていまなお、世界の民の三分の二が神と云う名のありもしない超越論的イデーに操られ、互いに殺し合うことの不合理さを、理性主義と経済思想は説明することができなかった。
 半面、これはまた次のようにも言い換えることだ出来るだろう。すなわち日本人だけがそういう観念の不全性から免れ得たと誇るのではなく、そのことを当の地球環境の大半の意思が占めていること、自らはそれを免れたと意識するのではなく、そのことからは部外者だと意識する己の特殊性こそ認識するべきであろう。かかる意識構造は、自分の外なる世界で生じていることを意識できないと云う想像力の欠陥であるのかもしれず、その精神構造の特殊性の先端には、先の戦争体験や被爆体験、さらには現下の沖縄の問題などにも、日本人の意識の構えの構造として、不吉な影を投げかけているのかもしれない。

 そもそも想像力とは何なのか?想像力とは誰なのか?それは理性や認識という行為とどう違うのか。あるいは行動や実践と云う行為の在り方とも。それは能動的な在り方をするのか受動的あるいは受容的な在り方をするものなのか。想像力とは、カント的な認識の彼方にある他なるものへの架け橋となる、ある種の神秘的な行為である。根本的に異質で他なるものへ思いを致す!――この行為の在り方は超越的で神的とでも云うべき行為である。考えてみれば認識の彼岸にあるこの行為は驚くべき性質のものなのである。
 ハンナ・アーレントは現代人の特質を、思考停止あるいは、考えない人、であると酷評したが、むしろ想像力をなくしたもの、と云うべきであった。