アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ドキュメンタリー映画「三島由紀夫と東大全共闘」1969――五十年目の真実

ドキュメンタリー映画三島由紀夫と東大全共闘」1969――五十年目の真実
NEW!2020-03-28 17:02:25
テーマ:文学と思想
三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実


監督 : 豊島圭介
出演 : 三島由紀夫、芥正彦、木村修、橋爪大三郎、篠原裕、宮澤章友、原昭弘、椎根和、清水寛、小川邦雄、平野啓一郎内田樹小熊英二瀬戸内寂聴
1969年5月13日、三島が衝撃の自死を遂げた前年。学生運動が激化していた東大駒場キャンパスの900番教室は、1000名を超える学生が「三島を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と盛り上がり、異様なテンションが充満していた。一方の三島は、警察が申し出た警護も断り、その身一つで敵地へと乗り込む。果たして、待ち構える最大の論客との対決は―?
©2019 映画「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」

◆ ◆ ◆
この映画についてはあまり言うべきことがない。
同時代人としてこのドキュメントの背景について簡単に触れておくとするならば、安田講堂攻防戦以降の全共闘運動の在り方がある。
つまり、この映画の予告編が言うように、三島と東大全共闘の全面的な対決があったわけではなく、安田講堂陥落以降の主要メンバーは潜伏状態にあり、指導部を失った駒場に集まった下級生たちが人と資金の不足をカンパするために、三島に出演を依頼した、というのが本当のところだろうか。つまり一種のチャリティーショーなのである。それを快く引き受けた三島は確かに尊敬に値する存在である。
この映画を見ていて、三島の優しさばかりが目についた。瀬戸内寂聴が言うように、もったいない、惜しい人を亡くした!という感慨は本当のことだろう。
三島の優しいまなざしの彼方には、5・15や2・26の決起した青年将校たちの群影があったに違いない。この映画が言うように、両者を繋ぐのはまさに反米・愛国のイデオロギーである。左も右も関係なかったのである。
三島が言うように、君たちと僕の間には共通点がある。それは直接民主主義と、赤心としての天皇制万歳の思想というのだが。まあ、これは三島の詭弁であって、真面目に取り上げる対象ではない。
言説として一つだけ面白かったのは、三島のエロティスムについての言説である。
エロティスムとは、猥褻なるものである。猥褻なるものの極限は、裸体で縛り付けられた肉体である、と彼は言うのだが。
なぜ、サディスムの映像がかくも猥褻感を感じさせるのだろうか。それは、他所の自由を奪っていること、人間の意志や自由を完全が拘束された状態に置かれているからであるという。
つまり、私たち人間は、自由を拘束された状態を不自然と感じ猥褻と感じると彼は言うのである。
私はうなってしまった。
それでは逆に、エロティスム、猥褻さを突き抜けて先にあるものは何だろうか。
もちろん 自由 である。自由なる他者の存在なのである。
その自由なる他者という存在を、体制や権力が如何に憎んでいたか、それが六十年代の全共闘運動が意味したものであった。
最後に、三島が言うように言葉は羽ばたいたか。
言葉は、持続という概念を体現することができたか。
それから一年半後の市谷で三島は決起するのだが、私にはなれ合いにも似たこの日この時の三島と駒場に集まった青年たちの眼差しの優しさと、決起した三島をあざ笑った自衛隊員との風景が心痛い。
私には、三島由紀夫の自殺が解きえない謎だという気はしない。むしろそれを謎だと感じるこの映画製作者たちの感性と三島の間にある今日の落差こそ謎だと思う。