アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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右寄り、左寄りのつづき アリアドネ・アーカイブスより

右寄り、左寄りのつづき
2018-04-17 12:15:51
テーマ:政治と経済


 まあ、既成左翼も含めた非資本主義陣営――こんな言葉があったかな?――が凋落を見せる中で、――ロシアに於いてすら共産党は非主流派になってしまいました。いまはプーチン流のファッショですね!――いまさら、右寄り左寄りなどと云う議論は、老人の回顧談か陳腐な言いがかりになってしまいました。 
 と云うのも、残存左翼にとっては、正統性が曖昧でどうでもよくなったからです。ついこの間も、民進党の革新部が選挙を期に独立勢力に、意図せずに押しやられた結果、立憲民主党と云う名の新党を立ち上げたのですが、言うことは、自分たちは過去の宏池会とあまり違わないと云うのですね。作戦もあるかと思いますが、今日中道を主張することがかなり難しくなった、と云う事情が背後にあるようです。
 これについてもっと付け加えて言うと、右寄り左寄りと云う議論は、右寄りの方々――正確には親米派エスタブリッシュメントの方々が言うことが多いようですね。
 つまりこれを排除の論理として利用しているのが気になります。例えば改憲論議に応じないと云うと、それがすなわち左流と云うことになります。改憲論議はしたいのだけれども、発議している人なり主導権を取りたがっている人たちが信用できないから、機会を改めて!と云っているだけなのに、これが理解できない。改憲論議はもっと民主主義の教養と素養があって、適当な方としたいと言っているだけなのですが、共産党などの既成論者たちと同一視されてしまうのは困ったものです。
 もはや、仮想の敵対勢力がいなくなってもこの言説を用い続けるメリットは、国益に反するものと云うレッテルを張ることができるからです。民主主義の後継者としての自信がないから、国益と云う錦の御旗に重ねて、アメリカの利権を代弁し、アメリカの利権に重ねて自らの利権をカムフラージュしながら主張できるというお目出度いシステムのようです。ところで当のアメリカは、旧冷戦時代の安保の亡霊のような忠誠心を示されても一向に嬉しくはないが、迷惑でもないと云うあいまいな態度を取っています。それで、誰かが尻尾を振るとミスター・トランプとプーチン氏は、半ば困惑したようににやにやとして見せるのです。いざとなれば、no!と云えばよいのですから、腹が座ったものです。
 このた方たちが語る国益アメリカの利害に重ねて語る国益とは、どちらかと云えば昔の村落共同体の個別利害に似ています。村の外と内と云う便利な二元論は敵と味方と云う二枚のカードで十分ですし、己が利害をさも尤もらしく個別利害を国益と言い換え、自分たちの利権や既得権を裏側から濃き混ませるのです。伝統的保守と違うのは、村の共通利害をさらに細分化した何々一家の利害のような個別利害を場合によっては、既得権益層の破壊に用いてみせて、岩盤規制を穿つと云ってみせる見せ物芸当は、村祭りの曲芸にも似ています。
 いま日本は、古めかしき村の社会の仮面をファサードに用いた、奇妙に捩れた資本主義社会の後期に入ろうとしています。村の共同性の個別利害にとって、現行憲法の「諸国民」などと云うのものが空疎な概念に映じるのは当たりまえのことです。村の鎮守の神様の傍らに忠魂碑を建てて、やがてはそちらの方に氏神様も英霊の魂も別のものに挿げ替える、――例えば安倍記念小学校と云うようなものに!何といっても村の鎮守の神様と杜と死んだ者たちの記憶は一銭の得にもならないし、最終的には地代も稼げず邪魔になるでしょうから。それまでは神道でも英霊の魂でも被災地に不慮の魂でも何でも方便として利用しておこうと云うことなのでしょうね。
 わたくしのように神道に親和を感じ柏手を打つものたち眼から見ても、罰当たりものたちの世の中です。