アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ビジネス右翼と心情右翼のちがい――実存の言葉で対峙する アリアドネ・アーカイブスより

ビジネス右翼と心情右翼のちがい――実存の言葉で対峙する
2018-05-01 08:29:58
テーマ:政治と経済

 ・・・・・と、言えば、いつもわたくしは安倍夫妻のことを思い出してしまうのですね。
 晋三氏には動物的な勘とか嗅覚のようなものがあって、自由主義経済が曲がり角に立ち、ケインズ型とはまた違った意味での政治主導型の、小さな政府を理念とする、疑似統制経済の形態に衣替えをしようとする頃、北朝鮮党を仮想の敵と想定し、絶対悪として固定化する一方、自らは信じてもいない国粋主義的あるいは憂国的な言説を拡声器を通じて音量を音響的に弄することで、のし上がってきた、小人物です。
 これをビジネス右翼と云います。
 
 ビジネス右翼の言動をそのまま信じて、良かれと思って入魂的に生きる、これが昭恵夫人の立場です。夫婦は一体とは言いますけれども、小人物と、ある意味で純真な夫人の取り合わせは、興味深いと云うよりも哀れな気持ちになるのを否定できません。
 昭恵夫人のような立場を、心情右翼と云うのです。彼女の信じ易さは、クリスチャンの教育を受けたことも関係しているのかも知れません。
 ビジネス右翼は心情右翼を広告塔として利用するのがセオリーですが、昭恵夫人は、とは言いながらそのことを十分に理解しておりました。子を産めないなどのいろいろな負い目のようなものがあった、と云うのです。

 それでは晋三氏や安倍昭恵夫人が嘘に類する類のことを弄しているかと云えば、そうとばかりも言えないのです。安倍晋三はともかく、一連のメディアの映像や発言などを観ている範囲では、昭恵夫人は夫のことを信じているように見えます。通常では考えられないことですが、カルカチュア化された国粋思想にも、森友学園で流した涙においても、演技であると云うよりは、真実の涙であるとした方が彼女の特異な人格を考えると実感が湧いてまいります。 
 同じことが、晋三氏が靖国戦没者慰霊で手を合わせるとき、演技をしているのかと云うと、そうとばかりは言えないと思います。本当に、赤心からの涙を流していると信じて良いのです。
 つまり自分が代表する支持母体の言説を声高に何度も何度も主張しているうちに、拡声器の音量が逆流し、自らもそれを信じている気持ちになり、逆立ちした幻想としての国民性と一体であると感じるようになるのです。また運命共同体を彷彿とさせる特異で極端な疑似思想性が、イデオロギーなき平均値的凡俗の時代に於いては反って商品価値を得られ易いことを氏が知っているからです。サラリーマン時代の氏を知る人間の思い出によれば、まるでそういう類の人間を予想させなかった、と云います。
 
 つまりこういうことですね、――日本には古来より赤心(攘夷派)とか真心の志(誠心――新選組)と云う言い方がありますが、曇りなきこころでお仕えし、赤心の志しで信じ忠義に報いる、と云うことだけではだめなのですね。
 言葉とは、己が信じるとか信じないとか、真を言うとか誠を尽くすとかいう言い方で十分ではなく、言葉が個的人格の恣意を離れて、外部からイデーとして到来すると云う、言葉の自立と自律性に基づいた言語感覚がこそ、デモクラシーの世の中では必要なことなことなのですね。
 最近、わたくしは、このこの言葉が言語となって実存の地平へと ――降りくだってくる と云う感覚を、実存としての言語、言語の実存、と云う言い方で述べております。
 言葉は自己の現存在を離れて、言葉自身が自らを開示し語ると云う段階にまで進まなければならないのです。自ずから言葉が自らを開陳する言語の自律的自己開示、それを実存の深まりと云うのです。

 ですから、昨今の日本のメディアはもっぱら、政治家や行政官の虚偽の答弁で話題になっていますが、主観的心情に基づいて、真実を言っているのか否かと云うよりも、それが実存の言葉であるのか否か、と云う感観点から見ると、その人物が信用できる人間であるのか否かが即時に判断できる、と云うことを言いたいのです。

 実存の言葉とは、嘘と分かり切っていることが堂々と主張されている世の中にあって、それを糾すことができるのは自分の選択権の領域にあるということ、あるいは自分にしかできないことがあってそれが言語として迫ってくるということ、それをある種の諦観のなかで静かに受け止め、感じることなのです。
 自分にしか見えない世界のこういう見え方、自分にしか言えないこういう世界の言い方、それは別の意味で、自分が自分らしくあることの、自覚の到来と云う意味で、譲ることのできない一線、譲ることのできない実存の底辺、ちょうど深海に降ろした錨が微かではあれ厳かに音を響かせる、人間であることの基底部なのです。