アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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安倍政権を哲学的に考える? あアリアドネ・アーカイブスより

安倍政権を哲学的に考える?
2018-05-07 07:02:29
テーマ:政治と経済


 さしたる個性もない特性のない男が、凡庸でさしたさる知性も教養があるわけでもない小人物が、驚くべきことに一億を超える国家の民主主義的思潮と国民の総意を主導する、国民の政治的基調を代表する象徴となろうとは、近未来型の小説やSEでの出来事ではなく、実際に、身近な世界であったことです。

 これに対する抗議や弾劾の仕方も、真理や真実はひとつと言う古典的なものでした。古典的な真理論の立場から、文書の偽造や改竄、日報や公文書の廃棄や散逸などに関わる、一連の不明朗な出来事が頻発したのです。

 真理はひとつであり、現象の背後に隠れている唯一の存在であるのか、それとも、真理などは、各々が立つそれぞれの見方なのであり、所詮、相対的なものに過ぎないのかどうか。後者は、絶対的な真理は存在しないとするものと、人間の能力に限界と偏りが存在するから相対的な真理しか手に入らないとするものです。この立場はさらに二つに分かれて、真理に対する我々の認識能力の相対性であるがゆえに真理の相対性を脱却できないとするものと、実験や実証や検証と云う知的行為の循環を経由することで、暫時的に真理に近づいていく、と云うものとがあります。後者がご存知のように近代科学の認識論的前提です。
 安倍政権が突き付けた思想的課題とは、そのいずれとも違ったものでした。 
 真理とは、内閣総理大臣たる私が語る、その真実の独我論的な内容だと云うのです。

 過去の歴史に於いても文書や出来事の偽造、修正、改竄は様々なレベルでなされてきました。安倍政権の特徴は、過去の独裁者たちとは違って、真理を前にした後ろめたさ、良心の呵責の如きものが不在である点です。この点がとても新しいのです。
 それはこの政権が、独特の真理観を持っているからです。

 論や言よりも実行を!

 よく聴きなれたフレーズですが、言葉だけではなく実行することが大事だ、と云う古典的な意味だけに留まりません。安倍政権下で生じている出来事は、真理は認識するような対象ではなく、行動のなかで自ら造り上げていくものだと云うのです。
 内閣総理大臣たる私が造り上げるのです。
 古典的な真理論に対して、「岩盤に穴を開けたい」、規制緩和を図りたい、と云うわけですね。

 複数年に跨るモリカケ問題と云う事件の一連の経緯は――すでによく知られているので詳細はご紹介しませんが――有期の国会機関や、委員会や本会議と云う複雑な仕組みを用いて、言葉の定義とはぐらかしの技術を用いて持久戦に持ち込み、一般的な民衆の関心やメディアの注目を逸らし鎮静化するのを根気強く待つ、と云うものでした。
 つまり民主主義国家の複雑な手続きを利用して、遅延し、言い訳を重ね、あちこちと言葉の言い回しに連れまわし、国民的な関心が疲弊するのを待つ、と云う姿勢です。 
 古典的な真理論に代わるものは、根気と、厚かましさと、厚顔無恥である、と云うわけですね。
 嘘も押し通せばそのうち真理になる、と云うのです。

 わたくしたちの真理に対する概念が揺らぐことで、真理を構成していた時間軸や歴史意識の概念も変化します。
 安倍政権は古典的な真理論を脱却していますので、みすみすわかっている嘘が見破られても、説明されてきた事実に反する証拠や反証が提出されても、揺らぐことなく、恐喝と妥協を織り交ぜつつ、強引さが目立つとされれば、あれこれと部分的な譲歩を重ねながら持久戦に持ち込み、訴求力が疲弊するのを待つと云う仕組みを造り上げたのです。
 こうしてあったことはなかったことになり、突き通された嘘、貫き通された嘘も終には真実となるというのです。 

 表題のお尻に「?」のマークを付けておきました。どのような俗悪で低俗な内容であろうと、哲学的に考察できるのです。と云うのも、もともと哲学とは俗悪なものなのですから。