アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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東ドイツの映画『嘘つきヤコブ』とハリウッドのリメイク版『聖なる嘘つき――その名はジェイコブ』 アリアドネ・アーカイブスより

東ドイツの映画『嘘つきヤコブ』とハリウッドのリメイク版『聖なる嘘つき――その名はジェイコブ』
2018-05-13 19:34:00
テーマ:映画と演劇


 すでに前者については紹介した嘘つきヤコブをめぐる映画を、本場の東ドイツの映画人によるものと、二十数年後のハリウッドによるリメイク版を同時に見ると云う面白い企画が福岡の大学の映画鑑賞会であった。
 第二次大戦末期のポーランドに於けるゲットーと呼ばれた特殊に区画されたユダヤ人の、未来が閉ざされた明日なき日々の暮らしのなかで、嘘の効用について考えさせる映画である。
 その善意でなされた嘘を如何に考えるか、嘘と分かっていても希望の断片を与えることによって人間はよりよく生きることもできるし、反面、それが分かったとき、反動も大きいとも云える。その二面性を、どちらの映画も、それぞれの観点に於いて描いている。
 粗筋の解説はしないことにしよう。
 1974年制作の東ドイツ版の映画を観るかぎりでは、聖なる嘘、――つまり宗教とは何か?と云う根源的なtow秘めて、三層の構造になっていたように思う。
 第一層目は、数千年に及ぶ旧約的時代を生きて来たユダヤ人にとっての宗教が持つ意味である。映画のなかでは、神が特にユダヤの民を選んでくれたことは有難いことだが、できれば他の民族を選んでほしかった、と云う登場人物の述懐も出てくるように、宗教的なものを安易に聖なる嘘として首肯しているわけではない。
 第二層目は、この映画でリアルタイムで描かれた、愛戦中のユダヤ人の運命とその物語である。旧約以来の州居とは何かと云う問いを引き摺りながらも、ゲットーと強制収容所と云う、なお過酷な状況に於いて、この問いが同時に問われる。
 第三層目は、この映画では意図的に描かれなかった、1970年代、プラハの春以降の東ドイツと云う、閉鎖的な密告社会におけるユダヤ人と云うよりも、人間が人間であることの問いである。この問いは、当時の物理的な事情で描くことができなかったという意味だけでなく、明日なき社会ゲットーと強制収容所に於ける監視と密告社会についての問いを、70年代の東独に於ける支配の構造と重ねてみるという視点がないために、この優れた映画を、物語ではあっても現代芸術として評価如何と云う点に於いては弱いものにしていた。致し方がないにしても、映画芸術としては物足りないものに感じさせる。

 東ドイツ版『嘘つきヤコブ』の技術面について言うと、スタジオ制作部分の舞台のぎこちなさと俳優たちの鍛え抜かれたうまさがアンバランスで、それが如何にも造り物めいた感じを与え、臨場感を奪っていたことだろう。ゲットーの、当時の殺風景な雰囲気を出すために継ぎ接ぎが施された舞台装置はわざとらしい感じを与え、上手すぎる俳優陣の熟練度が、本当らしさを裏切る結果になる、演技力の技量が舞台ではともかく、即物的な映像表現をとる映画の場合は、逆の結果を生んでいることは芸術の媒体を考える場合に興味深い。 

 次にハリウッドのリメイク版『聖なる嘘つき――その名はジェイコブ』については、ゲットーやアウシュビッツの過酷な経験も欠くアメリカに於ける商業主義的な映画が、リアリティの確保と云う点に於いては勝っていたという皮肉な結果については、芸術とは不思議なものだ、と云う問題を考えさせる。
 より直接に、聖なる嘘についての両作の姿勢を映画を観た範囲で断じるならば、前者の東ドイツ版は両義的である。聖なる嘘が持つ二律背反、両義性が持つ複雑さについて、結論を下しえないでいる。
 他方アメリカのリメイク版は、大戦下の過酷な体験がない故にこそ、明確に、聖なる嘘なるものを人間の尊厳と云う観点から取り上げているように見えた。つまり良心の名においてなされる聖なる嘘も、一時的には希望を与えるかもしれないが、その結果の両義的な意味の如何を超えて、真実を知ることがやはり人間の尊厳と云う観点からは譲ることができない点があるのではなかろうか。勿論、こう云うことを言うことができるためにはアメリカ市民のように戦場を遠く離れて、いわゆる「客観的な立場」を前提とすることが必要であったかもしれない。第三者的な観点に立って冷静に両価を評価することができる余裕を持つことが前提条件としてあったのかもしれない。にもかかわらず、状況の如何を問わず、人間の尊厳と云う観点は無条件的に妥当する、譲ることのできない、人間が人間である限りにおける、人間だしくあるための条件ではなかったろうか。アメリカ映画のリメイク版を見て感じたのはそうした点であった。

 アメリカのリメイク版では幾つかの改変がなされているが、その一番大きな場面は大草原のなかを強制収容所に運ばれる列車を、西進してきたソビエト軍の戦車隊が遮る場面であろう。こうあって欲しいという願い、誰しもが持つ藁をもすがる気持ち、虚しい願いであるがゆえに一層哀れさを誘う場面かも知れないが、それが現実にあった奇跡のような名場面であったのか、それとも貨物列車のなかで犇めいて運ばれる牛馬の如きユダヤの民が一瞬垣間見た白日夢の如きものであったか否か、何れにも取れるような曖昧さを残して映画は終わっている。
 ただ不思議なことには、有りそうにもないことを重々承知のうえで、ありそうもないことを描くことが反ってリアリティを感じさせることもあるのだ、と云う苦渋の想いにも似た感慨の念である。こうあって欲しいと云う、たんなる願い、シンプルであるがゆえに反ってリアリティが感じられる、芸術が持つ不思議さの所以であろうか。