アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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高遠訳プルースト『失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章 アリアドネ・アーカイブスより

高遠訳プルースト失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章 
2018-05-14 17:37:33
テーマ:文学と思想


 これからマルセル・プルーストの長大な大長編『失われた時を求めて』(全七巻)を、ゆっくりと、ゆっくりと、ため息が漏れるほどゆっくりと、最初から眠たいような春の日の日永に気長な気持ちを持続させながら読んでいきたいと思います。と云いますのも、都合がよいことに粗筋は殆ど関係がない読み方もあるいは可能で、部分的に読んでもそれなりの味わい方ができると思われるからです。特に冒頭の部分は本作のなかでも最晩年に加筆訂正がなされたと云われていますので、エッセンスのさわりを読むのにはよいかと思います。いっそエッセーか、随筆と思って読むことにいたしましょう。最後まで読めるとは思っていませんので、そのつもりで気楽にお付き合いください。(人生のとある時期にこの小説を読むために職業を辞めてしまったというあるアメリカ人女性の話を聴いたことはありますが、こう云うお方には海を越えて是非ともお会いしたいものです)
 最初は、有名な床で輾転反側を重ねる、寝苦しきプルースト氏の眠ったかと思えば目が覚める、無限循環旋律のその導入部です(プルースト氏を語る場合、物語る人物である語り手と作者その人であるプルースト氏は区別するのが常套ですが、今回にかぎり同一視して読んでいくことします。エッセーなり随筆として読む場合は両者を重ねた方がしっくりと来るからです)。この場面は、現在第一篇「スワンの家の方」第一部「コンブレー」、第一章と名付けられていますが、文庫本で百ページほどになります。(もっとも全体は五六千ページほどもありますので、百ページとはいっても、ほんの僅かなもの、さわりを味わうにすぎません)
 この場面の最大の特徴は、語り手の故郷のコンブレーを思い出すに至るまでを、――他の作者のように、私は思い出の故郷について語ろう!などとと書けば一行で済むものを、文体に独特の脚色を施して、身体の部位ごとに思い出される、痺れや触覚の感覚を通して、ひとつづつ断片が思い出され、過去の集積としての諸経験が、積み上げられた果てに、そうだ、自分はコンブレーについてこそ語りたかったのだ、と思うところまでが書かれているのです。
 なぜプルーストは、このような間接的で婉曲な文体を発明したかと云うと、精神や知性が持つ認識や記憶と云う近代の意識人としての技法が捕えるものは、所詮は対象知であるにすぎなくて、真の過去のリアリティ(現実)ではないという認識が彼には根深くあるからなのです。文章のなかにも出てくるのですが、往々にして本質を見逃しかねない知性や精神の営為や役割についてプルースト氏は非難しています、むしろ、それを注意深く見守るのが身体知の役割である、などと云うことさへ書かれてあるのです。
 この考え方は、身体的な条件を無条件的を超越論的に超える、プラトンイデアやカントの叡智界等の、ヨーロッパ形而上学的伝統的な考え方とは真逆な位置にあって、一部アリストテレスが言及しているように、身体知として現れる限りに於いて真の実在に関する知識はあるのだし、事後的に捉えられた客観知や対象知は死せる認識、干からびたミイラに着せられた経帷子の知に過ぎないと云うのです。つあまり認識を条件付ける時制に関するプルースト氏の独特の考え方があって、いわゆる哲学史における認識論とは、事後的に成立する、あるいは主客の分立をあらかじめ前提した対象論なり対象知に過ぎない、と云う認識論上の革命が、プルースト氏の登場の背景にはあるわけなのですね。つまりプルースト氏の文体は、感覚的あるいは抒情的であるなどと考えられていますが、ある程度哲学的な知識を踏まえないと読めないようなところが部分的にはあります。つまり無条件的にまっさらの無前提の立場で読むこともできますが、私の場合は学び覚えた概念的知識を駆使し、――現にいまも、なかなかに骨の折れるところがあります。つまりなかなか解説者の皆さんはおっしゃいませんが、手ぶらで読めるような本ではないのです。最終的に読み通すには覚悟と云うほどのものが必要なのです。(百ページほど読むと云う意義はあります)
 それではプルースト氏と云う名の大きな聖堂のなかに足を踏み入れることにしましょう。ひんやりとした聖堂の重い扉を押し開けて!遠くに仰ぎ見る祭壇と側廊部の暗闇の中に鎮座する礼拝堂のひとつ一つごとに、ページに文字と言語と語彙とを重ねて、わたくしとしては気合を入れて要約をしてみました。

(要約 p23-25) 長い間、私はまだ早い時間から床に就いた。書き出しの有名な部分である。――眠るともなく目が覚めて、輾転反側の時を過ごす。暗闇の中で目覚めた、夜を過ごした意識の内容を、前世のことのように他なるものとして思い起こすのだが、夜汽車の遠くから聴こえる荒涼とした響きのなかに、家路を急ぐ旅人のイメージに自らを擬える。しかし、眠りつつある私が誰であるのかを私自身が思い出したわけではない。曖昧模糊とした思いのなかで、今何時だろうかと考えて眼が覚める。

(要約 p25) マッチを擦って時刻を確かめる。――午前零時!それは旅先で病気持ちの男が、夜明けを待ちわびる気持ちに似ている。このまま、開けるともしれない長い長い夜を一人で耐えなければならないのだろうか。 

(要約 p26) 私は再び眠りにつく。壁の軋む音や、闇の中に万華鏡のように開けた幻想に囲まれながら、全ての事物が浮遊する無感覚状態のなかに戻っていきながら、夢のなかでは忘れていた幼児の記憶、例えば巻き毛を着られる恐怖感と叔父との出来事を、眠れない長い夜の短い目覚めのなかで瞬間的に思い出す。

(要約 p26-28) 長い眠れない夜の無理な姿勢が強いるしびれた感覚から、肋骨のなかからイブがアダムから生まれたように、私は幻想の女を通して自身の官能のほてりを経験する。その女はかって出会ったことのある女の特徴を備えている時は、そのことを思い出そうとするのだが、夢を見る旅人のように、記憶は少しづつ薄れていき、私は何時しか夢に出てきた女の記憶を忘れる。

(要約 p28-29) 眠っている人間は身の廻りに世界が持つ秩序を糸にも似た輪のように巻き付けている。目覚めたとき、人は本能的にそれらを手繰って、現在いる座標上の位置や目覚めるまでに経過した時間など、世俗の秩序を読み取ろうとする。しかし眠れる人間の試みは不確かで、曖昧模糊とした現状認識のなかで時と所と場所の秩序を失い、たったいま眠りに就いたばかりだなどと勘違いする。反対に、魔法の椅子に乗ったように時空を超えて高速で旅することもある。つまり私は、眠りに着いた時の居場所と時間の見取り図を手放してしまっているのである。 

(要約 p29) 真夜中に目覚めた私は自分がどこにいるのかを認識できない。どうかすると自分が誰であるのかすら分からない場合もある。私のなかにあるのは、存在しているという、原始感覚のみである。そのとき記憶が、ひとりでは脱出できない虚無から私を救うために天の救いのように私のなかに立ち現れる。私は一瞬にして、歪んだ如何と空間の混沌とした集積から解放され、見慣れた寝室のランプや折り襟になったシャツの形などを眼に止めて、私と云う存在を形づくる原型を取り戻していく。

(要約 p30) 私たちの周囲の事物が持つ不変不動の感覚は、事物が他ならぬ当の事物であると云う唯一性、その確信のせいである。だから目覚める前の私たちがその確信を手にする以前に於いては事物も国も歳月も、私の身体のまわりをぐるぐると廻る仕儀となる。私たちは、ようやく四岐の位置から壁の向きや家具の配置を推し量ろうとし、四岐の体の記憶、わき腹や膝や型の記憶からかってそこで眠ったことのある部屋部屋の記憶を喚起させ今いる場所を再構成しようとする。つまり精神や知性が判断する以前に、体の方がその記憶に頼って、それぞれの場所、ベッドの種類、ドアの位置、窓からの採光の様子、廊下の在り様などを思い出す!

(要約 p31) それぞれの体の位置から、例えば麻痺した脇腹の感覚から天蓋付きのダブルベッドの方位を思い出し、お休みを言えなかった母が滞在していた古い昔の祖父の家の記憶が身体のなかで蘇る。体の固有な感覚は、精神が決して忘れてはならない過去の忠実な万人の如く、その他の当時村座した事物、――ボヘミアングラス製の壺型の常夜灯、シエナ産大理石の暖炉、などを思い出す。弾みがついた記憶は、もっと目覚めが確実なものになればより一層明瞭に目に浮かべることができるであろう。
 
(要約 p31-32) 別の姿勢の記憶が蘇ることもあった。私がいるのはサンルー夫人の田舎の別荘の記憶である。私は晩餐の時刻を寝過ごしたらしい。そう思うのはコンブレーではどんなに遅くとも部屋の硝子に夕陽が赤く反映するのが見えたのだが、タンソンヴィルの夫人の別荘の過ごし方は、コンブレーとは全く違っていて、夜にしか外出しなかったからである。月光に照らされた小道を古い昔の記憶を思い出しながら辿る、そこでは外出から帰るときは夜の闇にただ一つ灯る灯台のような、部屋で過ごした経験だったからである。

(要約 p32) こうしたくるくると旋回する曖昧な記憶は短時間しか続かず、自分がどこにいるのかあやふやであったが、やがて一つ一つ、人生で住んだことのある部屋を思い浮かべ、冬の部屋、枕の隅、毛布の襟、肩掛けの端、ベッドの縁、当時読んでいた雑誌や新聞の類などと、全ての部屋の記憶を思い出すのであった。
 
(要約 p33—35) それら身体が過去を主婦くする作業はどこか鳥の巣作りに似ていた。暖炉が暖かく燃える冬の部屋を思い出す。半ば開かれた鎧戸に盛られかかるように射す月の光の記憶を通して夏の部屋を思い出す。時にはその部屋はルイ16世様式のインテリアで纏められ、小部屋なのに天井が高く、一部にマホガニーが貼られていた。かっては防虫剤の臭気に気分が悪くなり、紫色のカーテンには敵意を感じたものである。備え付けの掛け時計は無神経な音をたて、脚付きの四角い内覧鏡は馴染み始めた空間に非情な傷口を入れる。

(要約 p35) 私の想念は、部屋の形をなぞり、何時間も散り散りになった記憶の断片を集めながら、幾晩も苦しい時を過ごさなくてはならなかった。とは言え、習慣の力が働くと、カーテンの色は変わり、掛け時計は黙り込み、斜めに置かれた鏡は惻隠の情を覚えるようになる。習慣とは腕の立つ調整係だが、仕事が遅いので精神は慣れるまでに長い時間を苦しまなければならない。精神は習慣の力を借りることなくしてはある住まいを住めるものにすることすらも出来ないのだ。

(要約 p35-36) たしかに私ははっきりと目覚めてしまった。確かな事柄を司る善良な天使が私の周囲の揺らぎを止め、事物の不動性を手に入れる。私が夢に見た想念と現在がある場所が一致しないと、実在感への関心よりも想念の方に弾みがついて、コンブレーの大叔母の家を、バルベックで、パリで、ドンシェールで、ベネツィアで過ごした過去の日々を思い出して夜の大半を過ごすことになる。 

 こうして私はコンブレーの記憶を思い出す。 
 夢のまにまに、幻想と夢とない交ぜになった暗闇の中から、幻想の花が咲くように、無から一個のか細くて頼りない過去の一点へと、ちょうど舞台劇でスポットライトが一角を鋭く照らし出すように、コンブレーの村や教会堂の尖塔が聳える村を闇夜に浮かび上がらせる。