アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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高遠訳プルースト『失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章 アリアドネ・アーカイブスより

高遠訳プルースト失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章 
2018-05-15 16:37:09
テーマ:文学と思想

 
(要約 p45-49) 眠る時間になって二階に上がっていくときに私の唯一の慰めとなったのは、ベッドにもぐりこんだ頃お母さんがキスをしに来てくれることだった。とは言え、お休みのキスは一瞬で終わるので、階段を上がってくる母の衣擦れの音が伝わってくる頃になると、それは私に苦痛を与える様になった。できればお休みの時間ができるだけ先に押しやられて、このまま待機状態が永遠に続いてくれることを願うようさへなった。
 そんな長い夜の苦痛が予感される日々にあって、母にもう一度キスを懇願することは、母の怒りをかい、私の夜の儀式は音もたてずに崩れていくのだった。と云うのも、もう一度キスをせがむ習慣は厳格な父を苛立たせただろうから。
 しかしそんな悲しみの夜ですら、晩餐客がある日に比べればまだしも甘味だった。客がある夜は母はお休みのキスをしに来てはくれないからである。そんな数少ない晩餐の客にスワン氏があった。
 スワン氏は私たちの家族を訪れるほとんど唯一の人間で、肩ひじの張らない客として夕食後ふらりと訪れて来ることもあった。夕方、家の前のマロニエの陰でテーブルを囲んで座っていると、おずおずと呼び鈴が二度なる。そうすると皆はそれがスワン氏であるのが解っているのに、誰であろうと皆にして詮議するのであった。やや間があって祖父の声で「スワンの声だと思うよ」
 庭の灯を落とした照明のせいで、彼の鷲鼻、緑の眼、ブレサン風の短く切った赤みを帯びた金髪に縁取られた彼との額といった表情の特徴までははっきりとは分からない。私はさり気なく台所にシロップを持ってくるように告げる。来客に特別と思われないようにするのが大事なのだ。

(要約 p49-51) ところで祖父とスワン氏の父親は仲がよかった。スワン氏の父親が妻を亡くしたとき、祖父は納棺の現場にいなくていいように暫しの間外に連れ出した。二人は薄日の射す庭を経めぐりながら、突然スワン氏の父親は、親しい友人とこんな時に散歩に時を過ごすことができる幸せを口に出した。祖父に向かって――あなたは何だか悲しそうに見えるね。このそよ風、分かるよね。何といっても人生にはやっぱり良いところがある、と。その時俄かに死んだ妻の記憶が蘇った。こんときに限ってどうして自分は喜びの衝動に身をまかせたのか、意識の外で彼は己を責め続けた。
 彼は、妻の死の痛手から立ち直ることができずに二年後に死んだ。その死ぬまでの短い間に口癖になったのが、「女房のことはしょっちゅう考えるのだが、一度に沢山は考えられない」と云うものだった。彼が尚も、死に至る二年間と云う短い間に於いても、よりによってあんな時に妻のことを忘れて喜びに身を任せたことを責め続けていたことが愛おしいほど分かるのであった。
 その時から、ーーしょっちゅうなんだが、一度に少しだけ!ーー可哀そうなスワン氏の父親の比喩は汎用性を備えて、異質な様々な出来事に於いて転用され繰り返された。このスワン氏の父親の物語は半ば茶化されて様々なバリュエーションを生んだけれども、私に本当の人間の優しさと云うものを教えてくれた。