アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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高遠訳プルースト『失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章 アリアドネ・アーカイブスより

高遠訳プルースト失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章 
2018-05-16 06:36:18
テーマ:文学と思想

 
 以上が『失われた時を求めて』の主要人物であるスワン氏の父親に関する物語であるが、こうした父個の関係を描くことで、当時のフランス社会に於けるユダヤ人の興亡史と、同時に近代に於けるフランス中産階級と呼ばれた種族の歴史についても語っている。
 前者の方から云うと、祖父の代で資産の端緒を成し、父親の代で経済的な成功を勝ち取り、続いてスワンの代で経済的な成功に加えて社会的名声を獲得していった過程が語られることになる。さらにスワン氏の子や孫の世代はどうであったか、それが今後、スワン家の興亡史と云う形で全編において展開されることになるのです。
 後者の方についても、同様の、近代フランス文化と云われるものを支えたと思われるフランス中産階級の歴史が語られることになりますが、プルーストの観点ではこの両者は一部重なりあい、類似の歴史的展開をなしたと考えられます。フランス革命後のフランスと云う近代市民国家が、旧態の身分性から徐々に自らを解放し、野心とまでは言わなくともある種の志をもってパリに出てきた地方の民が、祖父や曽祖父の代で資産を成し、父親の代で、――例えばプルーストの父親がそうであったように、医者とか軍人とかいう形で社会的な名声をも望んで得られる、そういう平等がある程度実現されるつある時代でした。
 この小説の枠組みを超えることですが、プルーストの父親はその社会的名声と釣り合う程度には厳格さを持った紳士ですし、小説とは違ってプルーストの母親はユダヤ人だったと言われています。つまり、地方でのある家系が首都で経済的かつ社会的な名士的な地位を手に入れ、同じころパリのユダヤ人社会では、医学の権威でもあったプルースト博士と婚姻関係を結ぶことで名士の社会にユダヤ人社会の一部が統合されていくと云うう事情があったようなのでした。つまり革命とまでは言わなくても、階級間の移動があったと考えられるのです。
 さて、統合された失われた時を求めてに於ける両中産階級は今後どうなるのか。一部は、小説に描かれたように貴族階級に食い込み、その上昇機構は最終的には階級制度を解体させますし、フランス中産階級もまた、この長大な小説で一貫して描かれたように、哀惜と詠嘆の詩となるのです。滅び去っていく中産階級の美徳は、語り手の母や祖母を通して詠嘆的に語られていますし、先に描かれましたスワン氏や父親に関する短いエピソードに於いても、如何なく、魅力が語られてることになると思います。 

(要約 p51-61 ) ここでは結婚するまでのスワン氏とそれ以後のスワン氏が語られる。同時にコンブレーと云う田舎町に於ける小市民としてのスワン氏と、それと同列には論じられないパリのハイソサエティに属するスワン氏が語られます。
 結婚前のスワン氏は何年にも渡ってコンブレーの大叔母と祖父母が暮らす家にやって来た。大叔母や祖父母はスワン氏が父親の代に見るような株の仲買人としての限られた世界に暮らしているものだとばかり思っていた。パリの社交界における彼は、最も洗練されたと云われているジョッキークラブの会員であり、パリ伯爵やプリンス・オブ・ウェールズのお気に入りの友人でもあったのである。こういうもう一人のスワン氏の側面については想像することすらできないことだった。
 プルーストはコンブレーの一家がスワン氏の本質を見破れなかった理由として、インド風の懐旧制度に関する考え方と云う形で皮肉な書き方で紹介している。つまり祖父や父親の代がそうであるならば、納税者としてのランクが上下するだけで交友関係は知れている、と云うのである。
 こうした旧弊な、階級制度に制約された見方からすると、後にスワン氏の本質がある程度解りかけた段階に於いても、在来の交友関係に免じて許してあげようと考えていたようである。
 同様の誤解は、スワン氏が蘊蓄を傾けて収集している美術品や鑑定家としての彼についての過小評価についても同様だった。件の大叔母などは、あなたって、画商の言いなりになって二束三文の絵を高値で買わされているそうじゃありませんか!と云うのが口癖だった。大叔母のこうした階級性感覚は、潜在意識の部分では相手の卓越を認めても、意識がそれを首肯できないがゆえに、それを相手の気まぐれとして済ますと云う心理的機構も働いていた。資産家であるにもかかわらず、当時は倉庫群が多かったリヨン駅近くのオルレアン河岸に彼が済んでいることと同列の事象として論じたいらしいのであった。燕尾服姿であることを偶々御者に見られてしまったスワン氏が大公夫人のところからの帰りだと云う秘密の一端が明かされても、大叔母は身持ちの宜しくない女の喩えだと勘違いするのであった。
 大叔母は、一家を訪ねて来るスワン氏が手土産を持ってくるのは当然のことだと思っていたし、一家が相当の客をもてなすときには、ソースやサラダの作り方の援助を受けるためのお手伝いさん、としか考えていなかった。
 私たちは、同時代のあまたのクラブ会員たちに知られているスワン氏と大叔母が造り上げたスワン氏の、小さなコンブレーの小さな庭を囲んだ夕景色をとおして、ひとの社会的人格とは、彼とお付き合いをする私たちの精いっぱいの概念的知識で満たすものだと云うことを知るのである。当人の社会的陰核とは、他人によって造りだされたものなのである。契約書や遺言書のように誰の眼から見ても各自が目を通し印鑑を押す、と云うようなものではないのである。
 コンブレーでは、誰もが知る社交界に於けるスワン氏の様相と云う重要な側面が欠けていた。しかし威厳とは程遠く、謙った彼の面影のなかに、半分は忘却に沈んでしまったコンブレーの思い出の残滓が詰め込まれていたので、美術館にある同時代の肖像画がどれも似ていて同一の雰囲気を湛えているように、今はなき両親たちやコンブレーの家族のことを思いだす時は、彼のどこと云って内容のない大きいだけの茫漠とした印象が、無為に過ごした夕食後の時間の臣でと共に、失われた時に寄せる縁(えにし)ともなったのであった。