アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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高遠訳プルースト『失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章 アリアドネ・アーカイブスより

高遠訳プルースト失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章 
2018-05-17 08:16:31
テーマ:文学と思想

 同じような苦悩がスワンの人生で長年の苦しみの種のなってきたのだった。スワン以上に私を理解してくれる人間はいなかったのかもしれない。愛する人が自分のいない場所、自分はそこへ行くことができない快楽の場所にいると云う感じる苦悩をスワンに教えたのは恋だった。しかし私の場合は、いまだ恋が人生のなかに姿を現していないときに、恋の予感に揺れながら、居場所もなく、ふらふらと、ある日は一つの感情に仕え翌日には別の感情に従う。それは親への愛情であることもあれば、仲間の友情のうちにも現れる、と云う具合なのだ。
 フランソワーズが戻って来て私の手紙は給仕長が私て呉れますよと告げたとき、その喜びはスワンも既に良く知っている感情だった。しかし恋の仲介者の安請け合い!私たちは藁をもすがる気持ちでその仲介者のことをどんなに好きになるであろう。閉ざされた未知の空間には突然裂け目が出来、わたしたちはそこにあらゆる空想で彩ってみせるのでこの上もなく人間的なものになる瞬間!
 ああ、しかし母は来なかった。
 私はお茶をお持ちしましょうかと云うフランソワーズの申し出を断ってベッドに横になり階下から聴こえてくる話し声に耳をふさぐ。この夜は、会えなくても眠れると云う可能性を自ら閉ざしてしまったがために平静に受けとめることができなくなっている。
 と、突如、至福の思いが私を満たす!お母さんともう一度会わないうちは眠らないことにしよう!たとえこの先決まづい関係になるとしても。
 苦悩が消えたことからくる平静は途方もない歓喜で私を包み込む。窓の外ではあらゆる事物が月光の光を乱さないように沈黙のうちに凝固した。寝るために母が二階に上がってくる頃合いをみて待ち伏せする、廊下でもう一度お休みを言う、寝ずに起きていたことが解ればもはや家に置いてもらえず寄宿舎に入れられるだろう。しかし私が欲しているのは母におやすみのキスをすることであり、私は遠くまで来てしまったことを理解していた。もはや引き返すことはできないのだ。
 スワン氏を送ってゆく家族のものたちの足音が聞こえる。スワンが帰ったことを知らせる呼び鈴が聴こえる。続いて今夜の晩餐の具合についての両親の品定めも。そのなかでスワンが異常な老け方をしたことが話題になる。独身男に固有の老けかた、家族に分散されない単調な時間が積み重なるだけの白けた時の集積だとも。ついで最近のスワン氏と夫人に関する愛情生活の話しも出てくる。そのなかでシャルリュス氏と云う名がさりげなく出てきて夫人の公然たる愛人であることが解る。「町中の笑いものだわ!」
 ここで話題は例の老嬢たちがワインのお礼を言ったかと云うことに転ずる。二人の令嬢は憤慨する、「お礼を言わなかったんですって?」ここで二人は如何に聖地を極めた外交技術を駆使したかについて蘊蓄を傾け、そして大いに語る。「その言葉は聞きましたよ。でもスワンに通じたかな?」
 ここで散会となり両親だけが残された。もしよければ二階に上がって寝ることにしませんか。この夜最後のとぎれとぎれの会話を残して階段に通じている玄関のドアを開け、母が二階に上がってくる音が聞こえる。
 私は音を潜めて廊下に出る。母の蝋燭を示す光が揺れながら階段室に見えた。それから彼女の姿が一言見え、私は駆け寄った。母は最初は何が起きたのか分からなかった。その表情には驚きのあとに怒りの色が浮かんだ。彼女は一言も言葉を発しなかつた。何であれ、母が一言でも云ってくれたらどんなに良かっただろう。
 しかしこのあと生じたことは想定外の出来事だった。化粧室へ着替えに行った父がそこを出て階段を昇って来たのである。
 父が階段を昇ってくる音を聞きつけた母は父親の怒りを買うことにならないように途切れ途切れの声で言った。「急いで逃げて!」