高遠訳プルースト『失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章 アリアドネ・アーカイブスより
高遠訳プルースト『失われた時を求めて・Ⅰ』第一篇「スワンの家の方へ・Ⅰ」第一部コンブレ―第一章
2018-05-17 15:01:06
テーマ:文学と思想
(要約 p104- 113) 祖母の知的な趣味、――物質的な安楽と虚栄心以外に喜びを見出す、美しいものから得られる効用を説く、祖母の趣味は、人にプレゼントをする場合も如何なく発揮された。
具体的に云えば肘掛椅子やテーブルウエアーやステッキをあげることになっている場合でも彼女は「アンティーク」を探した。
祖母は、私が部屋に飾る建造物や風景の写真を飾って欲しいと望んでいた時も、写真と云う機械的で近代的な手段に疑問を呈し、それらの素材について誰か偉大な画家が描いていないかをスワンに尋ねコローの描いたシャルトルの大聖堂やユベール・ロベールのサン・ックルーの噴水、ターナーのヴェスヴィオ火山を選んだ。しかしながら祖母の徹底性は、いかな偉大な画家の絵であろうと複製の段階で写真術と云う近代主義的、実用主義的な手法の手を借らなければならないわけで、それならばと云うわけで昔の版画、――モルゲンが残したレオナルドの『最後の審判』のようなものを求め探させた。
こうしたプレゼントの仕方が齎す結果は好ましいものばかりとは限らないので、写真から得られたのでない私の風景は不正確であったし、アンティークの椅子は贈られた老婦人が最初に試しに座ってみるとその場で壊れた。祖母は堅牢さばかりを問題にするのは下品なことだと考えていたし、今は廃れているもの田舎出しか使われていないもののなかにこそ現代には隠された隠喩が含まれると信じていた。ジョルジュ・サンドの小説もそうした祖母の「アンティーク」の賜物だった分けである。
このあと母がサンドの『フランソワ・ル・シャンピ』を読み聞かせる場面が続く。物語は始まったがはっきりしない印象だった。その主な理由の一つは、母が恋愛感情に関する場面をことごとく飛ばして読んだからであった。だから粉ひきの妻と子供との間に生じた関係は恋愛の進展でしか説明できないのに私にはそれが深い神秘に満ちたものとして感じられた。母の朗読法は独自なものがあって、彼女の普段の心を動かされたり感動させらりした出来事に対しては敬意を失わなかったように、その人柄が本の読み方にも現れていたのだった。彼女がサンドの本に見出したのは、文章が書かれる以前から存在していて、実際にはそれを作者に書かせることになった心情溢れる調子、言葉では示されない調子だった。その力をかりて、優しさのうちにある甘美さと、愛情のうちにある哀愁とを付与し、読む速度を巧みに変えることで、かくも平板な散文に、絶えることのない、情感の命を吹き込んだ。
このような至福の夜がもう二度と来ないことを私は母が傍にいる静けさの中で理解していた。
要約 p113-115) そのようにして、久しい間、夜に目覚め、コンブレーのことを思い出していた。脳裏に蘇る思いではベンガル花火のように照らされて、他の部分は地に沈んだ。
暗闇の中にそこだけが際立つコンブレーの建造物、そこには小サロンがあり、食堂、スワンが通ってくる昏い小道、玄関、そこから登り始める階段室、があり、その幻想のピラミッド風の舞台装置の頂点には私の悲しみに満ちた寝室があった。
あたかもコンブレーとは細い階段で結ばれた二つの階でしかなく、夕方の七時にしか存在しななかつたように見えるけれども、実際にはコンブレーには他の時間も存在していた。だが、そこから私が引き出してくる結論は、それは意志的な記憶でしかなく、あるいは知性が教えてくれるものだけであって、過去の何ものかを保っているわけではない。その他の部分は私にとって実際は死んでしまったのだ。
永遠に死んでしまったのか?そうかもしれない。
こうした事情には多く偶然が関わっている。しかし死すべきものとしての運命にかかずりあう人間は、そう偶然だけに頼ってばかりもいられない。
私はケルトの神話を極めて理にかなったことだと思う。誰かが死ぬと、死者の魂は何か下位の存在に、獣や植物や無生物のなかに囚われ、たまたまそこを通りかかったものの呪文で蘇るまでは亡くなったままであると云うのである。しかし時来たりなば、魂は打ち震え、私たちを呼ぶ。私たちが彼らを認めるや否や、呪縛は解かれる。彼らは死に打ち勝ち、世界に立ち返って私たちと共に暮らす。
私たちの過去もそうである。過去を思い出そうとする努力は無駄であり、知性は虚しい。過去は知性の領域の外、知性の手の届かないところで、何か具体的な事物のなかに隠れている。死ぬ前に私たちがそうした恩寵にあずかることができるかどうかは偶然による。
プルーストは、ケルト神話の伝承以降の語りに於いて、本小説の意義を語っている。つまり過去をその呪縛から解放するのが作家たるものの役目である、と云うのである。