アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『失われた時を求めて』第一篇・第一部・第一章について アリアドネ・アーカイブスより

失われた時を求めて』第一篇・第一部・第一章について
2018-05-21 17:19:08
テーマ:文学と思想


 有名なプチットマドレーヌのフランス菓子の挿話で終わる長大な長編小説の最初の百ページほどが、雑然と茫漠とした体裁をとりながら、なかなかに巧みに書かれていて、本編への布石なども庭木の古びたガーデニングの傍らや樹々を写す川の淀みのなかに、見落とされるほど自然にかつ巧妙に、隠されるように配置されていながら、再読を前提としたこの比類なき長編小説、雄渾なテーマはすでに朧気なその姿を嫋嫋とした余韻のなかに現しているように思われます。
 なぜ、フランスの田舎菓子を浸したひと椀の紅茶のひと含みが齎す余韻が、この世の偶然性や恣意性を去り、不死とも云える超越的とも言える歓びの感覚を与えたのか。所詮、記憶は過去に関するものであり、感覚は現在に関わるものである。感覚が現在に時制的に関わるものだとは言っても、それらの多くはどうでもよいような世俗の雑事や偶然的に身の回りに生じたイヴェントの例証に過ぎない。過去は、思い出される限りに於いて、現在時制の利害と関心に関わり、過去そのものではなく、現在から透視した思い出の記憶、それ自身は死んだ経験に過ぎない。これら記憶とも感覚とも異なった、プルーストが本書で提起している、味覚や収穫を通じて得られた経験が持つ、超越的な意味、それは何だろうか。永遠とも永劫とも悠久とも云い、死の刹那的偶然性を忘れさせるもの、それについて研究家ですらない私が数行で語ることは不遜の誹りを受けるだろうか、問わず、――なぜならそれを語るためにこそ、プルーストは五六千ページを要うしたと云う文学史の例証と研究史が歴然としてあることをひとは挙げるのであろうから。

 とは言え語ってみよう、素人の独断と特権とを用いて!失われた時に描かれた歓びの経験の時の私なりの理解について!

 プルーストが味覚や感覚について卓越して語ったのは五感のなかのひとつとしての味覚や感覚についてではなく、知性に寄らない、体感覚としての身体知についてではなかっただろうか、と想像している。身体知とは知性が行う抽象的な体系的理解に寄らずに、われわれの受容感覚に従って、この日この処に現れるがままに現れるものを意味内容を確定せずに記述する、広い意味での現象学的知と呼ばれるもののことである。
 認識や知的作用は、プルーストが言うように、広く言えば対象知なり対象性認識、それは、主体と客体が分離して以降の、顧みられた限りに於ける反省知に過ぎない。知識とは、すでに当該のものが過去となって、固定化され明確、明瞭化たものとなってから、それを結果的に、幾分精緻に、あるいはより正確に捉える、知的修練のようなものだと考えられてきた。
 他方、真の知がそうした顧みられたものとしての概念知でないとするならば、それはどうしても現在に関わるものとしての感覚に近くなるのだろう。感覚には回想と云う過去の経歴がなく、予兆としての未来もない。感覚には現在の充実のみがある。しかし感覚とは、瞬間に過ぎ去るものであるがゆえに、そもそもここから教訓なり、人生に有意な知識を導き出すこのが可能な源泉と見なすことができるのだろうか。
 失われた時に求める私の疑問はそう云うところに帰着する。古典的な対象知はプルーストが言うように死んだ知識しか与えない(もちろん、自然科学の分野ではそういう知識は有意義だが)。かといって、感覚や知覚は直接的で真のリアリティを与えるような気がするけれども、瞬間の刹那的充実だけでは人生と云う大きな構造物を支えるには不十分である。プチットマドレーヌが齎した喜びは所詮エピソード以上のものにはなり得ないのではないのか。プルーストが最初の百べーじで提起している問題はこのようであった。
 ところで失われた時の導入部には既に次のような、人間が死んだ後の、それは人類がとでも言い換えて良い、非情で広漠で荒涼としたプルーストの文章が何気なく置かれている。

” 命ある存在が滅び、事物が破壊された後、古い過去から何も生き延びることがなかったときでも、遥かに非力で弱弱し気でありながら、強靭にして非物質的な、それでいて執拗で忠実なるもの、――つまり匂いと味だけが久しい間、魂魄さながらに留まって、地上の構造物が全て廃墟と化した後も、廃墟のなかで思い起こし、待ち望み、期待し、撓むことなく、臭いと味の小さな涙の滴で支えるのだ、思い出と云う名の壮大な建築物を!”(高遠訳文庫版p121)

 

 人類の滅亡後も生き延びるもの、非物質的で、弱弱しくありながら、強靭で執拗で真実に忠実であるもののこと、つまり廃墟のなかの非人称の主体格であるものが夢見るのは、古典的な古代人がかって語ったことがある、魂のことだと思えるのだが。それは魂や霊魂などの存在を容易に肯定できない現代人の理知的感覚からは、彼が彼の感性に誠実である限り、その言葉を使うことは許されない、そうした重要な言葉なのである、と想像されるばかりなのである。

 つまりある経験が――プチットマドレーヌの経験などが――この上ない歓びの根源として感受されたと云うことは、過去と現在と云う時制的時間的枠踏みの強固さ、堅牢さが揺らぎうる瞬間がある、と云う経験に求めるほかはない。

 つまり現在のなかに過去があり、過去のなかに現在が甦ると云う、この世と云うものが成り立つための仕組みが一旦、棚上げされた事態に他ならない。それはそれ自身としては経験しない、死と云うもののこの世とあの世とを区別する枠組みに似ている。

 そこでは最早、主格としての「私」などはあり得ない。論理的な先後関係から云えば人間は未だ生まれ出でず、経験とそれに対応する言葉のみがあって、かかる言葉の発見が、一篇の長編小説を書くと云う営為を導くのではないのか、上手く言えないけれども、そうとしか言えないような気がする。

 経験自身が自らの言語によって己を語る、こう云えば何か難しい、古代の秘儀めいたことのように思われるかもしれないが、本来、古典とはそういうものではなかったか、といままでの読書経からしてそう思い当たるのである。古典の魅力は、読み進むうちにある程度までは私たちの意識で読み進むのだが、ある閾値を超えると、言語自身が私たちに代わり己を語り展開する。言葉が己自身を自律的に語る、言葉には私たちの人間的世界からは自立したそれ自身の宇宙があり、そうした人間主義的な論理の構造を超えた世界が現出しているのをその時は意識しないのであるが顧みて記憶なかから意識として拾い上げる、そうした経験がないだろうか。かって芸術至上主義者たちが語ったことと結論だけは同じになるけれども、芸術の世界が独自に描き出した宇宙は個人の恣意性や偶然性を逃れている分だけ、世界は広いのだとも深いのだとも云える。芸術がそもそもこの世に存在することの意味は芸術が有限であるがままの人性の頸木を脱し人生を超越的に超える!そう云うところにあるのではなかろうか。芸術への愛は、人生からの逃避と云う面もあるけれども、最終的には、深さに於いても広さに於いても、人生を超えるのである。


 いまだに最初の百頁を読み始めたばかりで、『失われた時を求めて』については断片的に読んだだけに過ぎない者が何をかいわんや、と専門家や碩学の方たちからは云われるかもしれないが、たぶん彼らは正しいのだろう。


 私は読書人としての自らの歩んできた道のりを振り返る。私はプルーストを高校二年生の夏に読んだ。それから半世紀以上の歳月が流れて、プルーストが生涯を終えた年齢を遥かに越える年齢に無為にも何事も成すことなくディレッタントとして辿り着いてしまった、プルーストによって辛辣に描かれたスワン氏のように。

 本人の相性と云うこともあるだろうけれども、失われた時を読む歓びについて語った文章はさらに多い。けれども、齢を迎え加えて、この途方もない書物を前にし対峙する私には、読書と云う作業は何時も常に苦行と云うものに近かかった。それはプルーストに限らず今までに経て来た多くの読書の経験について感じていることでもある。私にはもともと、文学は向いていなかったのかもしれない、最近は、ときどき、そう思うことがある。残された余時間と体力から換算するに、プルーストを読み終えることすらいまはただ、祈る様に切に願わねばならぬ偶然ごとにほかならないのであるから。 

 

 命の短さゆえに寛大さを乞い、お許しあらんことを!