清順の美学その1――『野獣の青春と』l『殺しの烙印』 アリアドネ・アーカイブスより
清順の美学その1――『野獣の青春と』l『殺しの烙印』
2018-05-22 16:49:07
テーマ:映画と演劇
『野獣の青春』1963年と『殺しの烙印』1967年、映画自体には驚かなかったが、技法には驚いた。
後者は、殺し屋たちの戦後の挽歌を描いた抒情詩と云っても良いだろうか。殺しを依頼され、最後の不可能に近い殺しに失敗したがゆえに、今度は自分が狙われ、狙う相手は、殺し屋ナンバーワンとも云うべきXで、誰もまだ顔を見たことがない。主人公の殺し屋も№3と多様自称されているがゆえに矜持がないわけではない。しかし彼の手練手管に翻弄されて、死んだほうがましだと思うところまで追いつめられるのだが、最後は相打ちに近い形で双方とも果てる、何とも無残な物語である。そのなかでも、彼を殺しに来る殺し屋が普通ではなく、ある段階に於いては彼の妻であり、もう一人は自殺願望をもった美人の殺し屋である。
殺し屋を取り巻く物語であるから、殺しの理由はない。殺し屋とは、一日でも長く生き延びる者のいいである。殺すものと殺されるものとの不思議な関係、それは共通の時代を生きたもの同士の戦友愛のようでもあるし、いっそ、同性愛に似ている。
最後に、化けの皮を自ら剥いで出てくるナンバー1の殺し屋こそ、自分自身だった、と云うことにしてしまえば美学としては高級ぽさが出たのかも知れないが、インテリ向けの映画ではないから、そうはならなかった。
これは終戦直後の余韻を引き摺った男たちと女たちの物語である。全編を通じて、苦しみ悶えてコンクリートの舗装の上をのたうち回る宍戸錠は、私にはワイダの『灰とダイヤモンド』を思わせた。今日から見たときに、無内容な映画なのに、なぜか男も女も生き生きと生きているような錯覚に囚われるのはなぜだろうか。
『野獣の青春』は、『殺しの烙印』ほど無内容でもニヒルでもない。一応、罪無くして罠に嵌められ殺された同僚への贐としてなされた復讐譚である。
警察官とコールガールの心中事件から始まる。遺書もあることから、当該者が刑事であったことは特異だが、男女の痴情沙汰に関わるものには差別なしと、三面記事として終息したかに見える。ここから男の真相究明と復讐が始まる。刑事時代の同僚はなぜ殺されたのか。殺したのは誰か?
背景には暴力団の組織があり、隠されたコールガールの裏組織があった。渋谷の縄張りのもめ事を通じて二つの組織を争わせ、二重スパイとなって扇動する。しかし、二重スパイの演技も最後は綻びて、あわやと云うところで、二つの組の乱闘騒ぎのどさくさで、真相が明らかになる。
同僚の刑事を殺したのは、妻に納まり、現在は貞淑な未亡人を演じている洋裁を教えて細々と暮らしている妻であったと云うのである。その女は、かって組織から刑事の動性を探るために派遣され、何食わぬ顔をして夫婦生活とコールガール組織の女王としての二つの面を使い分けて生きて来た。その秘密が、夫の知るところとなり、殺害した、と云うのである。
最後まで彼女の正体が明らかにされないところが凄いところであり、映画の醍醐味である。悪女を演じた渡辺美佐子が実に良い。女の哀れさと冷酷さを共に演じてなかなかに得難い演技であったと思う。彼女の最後は顔をカミソリで切り刻まれて死ぬと云うものだが、映画はそこまでは描かれていない。暴力団のボスが通常のワルと云うイメージからは遠い、一人はサラリーマン風、もう一人は女形風と、普通さと残忍さと云う二面を持った薄気味悪い人物として描かれているのも、流石に清順の美学と云うほどのものはある。
また、両作を通じて云えることは、悪人は悪人らしさ、善人は善人らしく必ずしも描かれていない点だろう。それは敵味方の構想する場面も同様であって、敵味方入り乱れてテンポの速さについていくには大変である。つまり娯楽映画としての解り易さがないのである。そういう緊張度をもって見るべき映画になっているという意味である。
野獣のように死んで逝く男たちの物語は、男の美学と云えるようなものではない。一日でも長く生き延びることだけが目的であるような、無機的で、獣のような、夢も理想もない戦後のお話なのである。
戦後も、終戦直後の時代、一面拘束するものなき自由がありながら、この世に生きて有る生存が根本的に無意味であると云う哲学以前の抒情、そういう雰囲気を久しぶりに思い出した。