アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『薔薇の葬列』1969――松本俊夫の世界その⑴  アリアドネ・アーカイブスより

薔薇の葬列』1969――松本俊夫の世界その⑴
2018-06-24 18:43:05
テーマ:映画と演劇


 六十年代の終わりの頃、新宿のゲイバーの花形である美少年エディは、現在のママであるレダとその座を争い、彼女を死に追いやり、店もオーナーの心も共に手に入れるが、やがて呪いのような不吉な運命の元に破滅する、と云うもの。ギリシア神話のオイディップスの悲劇をモチーフにしている。また映画のなかでも数回、パゾリーニの『アポロンの島』のポスターが意味深長に出てくる。

 箇条書き風に簡単に書けば、ギリシア神話の利用の仕方に於いては、母を殺し、父とホモセクシュアルとして交わると云う形で裏返されている。最後に眼を刃で潰すのは共通している。

 1969年の9月の作品であるだけに当時の政治や風俗画描かれている。学生運動ゲバラを真似たスタイリストのアングラ系の友人、アングラ系の撮影現場の風景や、映画と同時進行的に語られる、現役ながら映画に出演している俳優たちへの、歯に衣着せぬシリアスな問いかけなど。

 「薔薇の葬列」と云う映画を語りながら、語りは同一のシーンが回を重ねるごとに、真相が断片的に明かされ、そうだったのか、と云う仕掛けが施された映画である。
 私は実験系の映画やアングラ系のものには厳しい評価をしているので、それほどこの映画が、映画界の通を自称する人たちによって評価されるほど「新しい」kじゃと云うと、何とも言えない気がする。

 松本がゲイの世界を通していがいてみせたのは、色町に生きる芸妓や芸子同士の旦那の取りあいであり、所詮、男が女であることに特異な意味を見出そうと、社会的な枠組みとは斜めに構えて粋がってみせても、忠実に「ひも」的な存在を要とする、男社会の縮図をより象徴的に作り上げてみせたという以上のものではない。つまり世俗の価値観を超えるものが何も見出せないのである。

 オイディプスの物語は、呪われた運命ゆえに捨て子の段階まで落とされたオイディプスが数奇な運命の導きにより、偶然から父を殺し、それとは知らずに母と結ばれ、それを知ると自らの運命から己を遮断するために眼を潰しさすらいの旅にでる、と云うものである。
 実際のギリシア悲劇では、ここでは終わらずに、亡くなった父オイディプスの遺児たちが体制への関与の程度によって憎しみ合い殺し合う。運命は兄弟が相打ちで果てたのちも、それを弔うもの達の物語として、アンティゴネーの悲劇としても語られる。彼女の物語が語るものは、現政権による加担の程度の違いによる、死の序列化、差別化である。現政権に歯向かったものは死の葬儀を執り行ってはならない、という法的定めと、それを弔うと云う人間の普遍的行為ゆえに、国家や体制を相対化できるか否かと云う問いでもある。アンティゴネーが執った決断は、死の絶対性はあらゆるものに優先すると云うものである。オイディプスの悲劇はここにきて、初めて人類が哲学と云う問いに人類史上はじめて突き当った、思惟的自問自答の嚆矢となったことを意味している。

 それでは松本俊夫描く『薔薇の葬列』においては、疑似オイディプスであるエディは何故両眼をえぐり、可視的に観ることの断念をとおして何を見ようとしたのだろうか。――これが私の松本俊夫に対する、根本的な問いかけである。 
 残念ながら、松本は昨年亡くなってしまってこの問いに答えることはできない。

 以上、大変に辛口の評価をしてしまったが、否定性の無限循環を描いたこの映画には、否定性の評価を受けとめる義務があると思うのである。
 この映画のなかでエピソード的に描かれている、関係を逃れてきた反帝学評の活動員をエディが助ける場面がある。学生は恩義に謝意を述べながら、当時の学生言葉で超越論的に語る、――精神とは、否定に否定を重ねる無限否定の果てに、精神の絶対性に到達する、と。松本は、この言説を「風俗」の次元としてしか取り上げていないが、単なるパロディとして戯画化されて描かれただけで済む話でもないのである。

 この作品は、折角の文学史上の古典と六十年代の政治的季節の事象を踏まえながらも、映像作家の小手先に流れて、内容的に歯ごたえのあるものを生み出したとは言い難い。
 この映画の評価は、ピーターこと池畑慎之介の魅力を引き出し、ゲイの世界の美しさを記録にとどめた事であろう。それから六十年代の新宿の風景もまた懐かしい!

 (付言) 政治青年とゲイ少年
 政治的青年については今までにも語られてきたが、ゲイについて本音に近い描き方をされた映像作品ではなかろうか。
 本音とはこういう意味である。一つは映画手法として、映画進行に伴って、現地現物でスカウトされた現役のゲイボーイたちがインタビューに答えて語る場面である。つまり映画制作と、本物のゲイたちを俳優陣に据えた、リアルとフィクションの関係性が持つ臨場感である。つまり造られた映画と云う額縁を取り払った映画制作の試みと云うことができる。
 もう一つは、本映画のドキュメンタリータッチと並んで、主人公の語り、つまり疎外されたものとしてのゲイの過酷すぎて悲惨な生い立ちの物語である。この物語についても、映画のなかで実際にピーターに意見を求められ、彼自身が自らの生い立ちは別として、「共感できる」ものであることを語っている。つまり、父が物理的に不在で母は精神的に不在であると云う二重の不在化された家庭の崩壊があり、他方精神的にも肉体的にも自立できない自分があって、ゲイボーイを選び取る行為とは、現実の絶対的な否認にあると云う点である。それが観念や妄想の次元に留まらずに、ビジネスとして、ビジネスと云うには余りに生々しい生業として成立するところに、リアリティとしての自己主張がある。なぜならリアリティとは、自らの内面と外見との間の疎隔を突破し、何ほどか一致させようとする、いじらしいほどの人間的な営為であるからだ。
 同じことが六十年代の政治的季節に於ける青年たちについても言えた。彼らもまた、何ほどか政治とは現実と云う不動の構造に向けられた否認の行為であったからだ。映画のなかでゲイのエディが逃げ込んできた傷ついた青年を小鳥のように解放する場面は、両者の親和関係を語っている。
 つまり、どちらの世界に於いても未来と云うものはなく、現実の否認と云う意思表示だけが卓越した世界なのである。ゲイの世界と云うものが、いまもこのようであるのかどうか、私は知らない。