アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『ドグラ・マグラ』1988――松本俊夫の世界その⑶   アリアドネ・アーカイブスより

ドグラ・マグラ』1988――松本俊夫の世界その⑶
2018-06-26 13:11:08
テーマ:映画と演劇


 『ドグラ・マグラ』と云う映画

 今回この映画を観て、一部には名高い夢野久作の世界の一端に触れた気がしました。同じ九州生まれの作家であり、福岡を主な在住拠点とし、大陸浪人玄洋社などと云う国粋的な思想団体の影を引きずるなかから、こうした不気味な作品が生まれたと思えば、自らの第二の郷里に対する無理解、無関心を恥ずかしく思わなければならないところでしょう。この映画のなかに描かれた主要な場所も、私の家のつい先の近所で、現在は埋め立てられて都市の風貌は一変していると思いますが、それでも長く住んでいる人間故の痕跡のようなものは感じ取ることができます。九州大学病院や、第一の惨劇が行われたとされる筑豊の直方と云うところも少しは知っています。それはさておき、――

 この物語は、記憶を無くした青年の物語です。
 記憶を無くしたことが、或いは記憶を恢復することがどういうことを意味するのか、作者は仮説を用意して、解釈の如何で観るものを暗示にかけます。
 作者は、現在の担当主治医に、何か非常にショッキングな出来事に遭遇して記憶を無くしたのかもしれない、と云います。
 また、この事件には、過去の二つの身内の陰惨な殺人事件にも関係している、と云わせます。つまり、自分にとって直視に耐えることができない事件であったがために、意識下に追いやり、その結果記憶を喪失したのだ、と云うのです。
 前者を主張しているのが、正木博士と云う、精神病理学の教授です。後者を主張し、主人公と殺人事件の関係を否定してみせているのが若林博士と云う、法医学の教授です。
 この二人の精神医学の碩学の対立をとおして理解できるのは、正木博士の学者としての奇矯さ、であり常軌を逸した異常さである。自分の学説を証明させるために、呉一郎と云う青年に種々の暗示をかけ、潜在意識を利用して殺人を犯させる、つまりマインドコントロールによる完全犯罪を試みたのであるかもしれない、と若い頃からのライバルでもあった若林博士は考えているのである。実際に、この物語が始まる一か月ほど前に正木博士は自殺しているのであるが、その理由は、ライバル関係の若林博士に見破られたこと、もう一つは己の学説のために人を利用し、かつ多数の人間を死に追い詰めたという意味での、良心の呵責に堪え得なかった、というものである。この主張は陰に陽に若林博士から聴かされることになる。
 しかし実際には正木博士は生きており(あるいは語り手の青年の空想のなかでは生きており)、当時の精神医学会の現状についての告発がある。すなわち精神医学とは、非健常者を社会から隔離しておくための方便に過ぎない、と云うのである。そこには正常と異常を異常に腑分けする社会の異常さと云う時代背景があった。精神病の患者が適正な治療を受けて回復に至る、という物語はとんでもない空想の類に過ぎないのである。つまり正木博士の考え方は、精神病をあくまで近代医学の立場から正常と異常の二分法によって区別し、また区別弁別することをもって「科学的」と称した、近代科学と医学の象徴なのであり、正木博士の立場は、医学とはあくまで人間の医学であり、病例、病床のカタログ展示所ではない。患者を人間として扱うところに医学の基礎があるとするならば、彼の主導する「解放治療」は精神医学史にも類似のものを見出すのは容易であり、歴史的根拠に基づいたものであり、この物語の基調である荒唐無稽さにはあたらない。
 また正木博士には「胎児人類回生論」、「脳髄論」などの学術論文があり、それらは語り手の青年の潜在意識をコントロールするための有力な手段としても活用される。前者は、――映画を観た範囲で云うのだが――陣理と云う生物は知能の他は他の生物種に対して卓越するところもなく、むしろ脆弱とも云える環境適応性ゆえに、様々の悪夢の諸形態を細胞形態のなかに宿している。それらの悪夢は人類史としても繰り返されるし、個的系統発展としてのは、母親の胎内十か月の間にも繰り返される「胎児の夢」として存在するのだと云う。
 「脳髄論」とは、能は思考の本体であると云うよりも、体の各部が、各細胞が「思考する」情報の交換センターのようなものだと云うのである。ついでに言うと、交換センターが機能しなくなり、各部位の情報同士が生に、直截に交換し合うようになると、いままで脳髄に覆われていた人類の夢とも云うべきオブラートが溶解し、「胎児の夢」や人類の類的系統史に於いて繰り返された「悪夢」が出現する。それが精神病と云うものなのである、と。

 こうして太古の、数千年規模の中国の古代の人物の伝説に基づいて、その子孫を称する呉一族の一青年の生涯のある一時期に於いて、人類史の悪夢が再現される。
 その悪夢と云うのが、かって直方に起きた主婦の殺人事件であり、彼女は絞殺されたのちに手すりから無残に身体をぶら下げられる。殺し方の残虐さのゆえに、若林教授は他殺説をとり、正木教授は系統思惟遺伝説をとる(あるいは彼のマインドコントロールの効果を再確認する)。
 呉一郎と云う、中国古代の一族の末裔である呉一郎を間に置いて、正木と若林と云う医学界の碩学が対峙する。
 若林の言うことの方を信用するなら、呉一郎による第二の惨劇は防げるのだろうか。第二の惨劇とは、自らの許嫁を絞殺し、その死体が腐乱するに至るまでを克明に記録すると云う、ある種の不浄観の実践である。
 
 第二の事件もまた第一の母殺しと同様に、夢遊病の状態で行われたかの如くである。あり日の夕暮れのこと、許嫁の母が蔵の中に明かりがさしているのを不審に思って覗いてみると、そこには全裸にされた娘の遺体があり、それを克明に絵筆で記録する呉一郎の姿があった、と云うものである。
 実際には許嫁の娘は死んでおらず、遺体検死を行った若林博士の手によって、深夜の解剖教室において他者の遺体とすり替えられる。この衝撃的なシーンについては見たものはいないはずなのに、生きているはずもない正木博士の口から語られる。あるいは本当に博士は生きているのか。あるいはこれもまた語り手の受けた妄想に過ぎないのか。
 こうして、呉モヨ子の「遺体」は若林博士の手で精神病棟の、語り手の部屋とは隣り合った隣室で甦る。
 この若林博士の一連の奇妙でもあれば、病的で猟奇的な行いをどう解釈すべきか。
 ここは素直に、こう解釈しておこう。――すなわち系統遺伝を繰り返す呉一族の負の因果を、ここでいったん断ち切っておく、と云うことに彼は医学の光明を見たのである、と。素直すぎるかもしれないが、背後には、学究としての彼のプライドもあったろうし、科学者としての、法医学者としての自負もあったであろう。

 しかし呉一郎、あるいは語り手は再び正木博士の、あるいはその亡霊の暗示に引き寄せられる。解放病棟における戸外の治癒のための労働過程を見せられることで、そこに自分のもう一つの分身を見るようにと誘導されてしまう。
 ドッペルゲンガーと云う症例だが、もう一人の自分を見たものには死期が近いと言い伝えられている。正木博士の解放治療は失敗し、もう一人の自分である呉一郎による複数人の患者殺しの惨劇によって正木教授の「新精神医学」は挫折し、実験治療棟もまた廃院されたものと思われる。
 映画のラストシーンは、殺戮の返り血を浴びた呉一郎と海岸で対面し、相対するところで終わっている。呉一郎とは語り手のことであり、二つの惨劇事件も実際に行われたことであり、真相の露呈は彼の精神も肉体も気圧に堪え得ず破裂するのであろうか。それとも若林博士による負の連鎖の切断、解放治療の失敗の後付けなどの営為をとおして、蘇生した娘の愛によって全ては報われる、とでも云うのだろうか。