アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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リアリティと実感――松本俊夫の世界その⑷ アリアドネ・アーカイブスより

リアリティと実感――松本俊夫の世界その⑷
2018-06-26 15:40:21
テーマ:映画と演劇


 『ドグラ・マグラ』と云う世界、複雑なようにも単純なようにも見えます。系統的履歴の遺伝と云う肉体的なもののみに限定されない、後天的なものが、履歴生得が繰り返し繰り返されることによって、疑似遺伝的な傾向を帯びたもの、それを暗示と云う方法や、潜在意識と云う分野に影響を与えることで、任意にコントロールしえると云う、マインドコントロールの結果として、予想通りに、歴史的でもあれば伝説的な事件が繰り返される。それを推し進めるものとしての正木博士と、近代医学の立場から阻止しようとする若林博士の対立、二人の間で翻弄される呉一郎とその他の一族の者たち、という構図になろうか。
 言いかえれば、人間の運命に関してそれが持つ不確定性をあくまで異常と正常と云う二元論的な構図の中に納めようとする近代主義と、かかる思惟や論理の枠組みを撤廃することによって、「正常」のなかに潜んだ「異常」を告発しえる!と考える立場との対立とも云えようか。

 先に松本の絵異常表現に関しては、人間的感性が持つ次元を、リアリティと実感と云う風に区分して説明を試みたところであった。
 リアリティとは、個人の資質や条件の如何に関わらず、こうあるのが自然な過程である、と思わせるもの。
 実感とは、リアリティが実在する現実階の諸抵抗や諸干渉を受けて、存立可能な形で必要にして十分な形態を選び取るもの。その形は必要にして十分とは言えても、論理的な意味での必然性ではないし、所詮は偶然性の尾鰭背鰭を引き摺ったものであること・・・・・などなど。
 
 この考え方でこの映画を鑑賞すると、真実はどうだったのだろう、と推理小説的に考えるのではなく、どう云う展開が自然なものと言えるのだろうか、と云うことになり、極めてすっきりする。人間同士の利害関係を超えた物事の理の、自然、とは何か。私たちは事柄の自然を忘れて、個人の心理的な事情のみによって判断しがちである。
 この映画を観ただけの範囲での話に限れば、若林教授による深夜の解剖教室での挿話をどう解釈するかによって、ほぼ推理は確定するように思われる。
 理性のひと若林博士が、かかる猟奇的な行為に駆られる必然性に苦しむ。死んだと思われてはいるが未だ生きている娘を替え玉にして再生させることの意味は何だろうか。
 正木博士の悪しき企みの裏をかくことである。数千年に及んで系統遺伝を繰り返す悪しき一族の悪循環を近代主義の光明によって解放することである。博士がインテリにありがちな猟奇的な関心を抱いたとは考えにくい。(現実に呉ヨモ子は語り手の隣室に生きていて、闇に浮かぶ励ましの灯台のように浮かび続けているのであるから。)
 また、直方の母親殺しもまた、状況証拠だけが云々されているだけなのであるから、偶然の他殺事件であったと云うことになれば、拍子抜けするほどの平凡な事件になってしまう。
 生き返った正木博士は確かに雄弁だが、語り手の編み出した妄想であるかもしれず、妄想は、現実には誰も観ることができないはずの、若林教授による解剖教室でのあの夜の出来事を、夢と云う形で告げ知らせているのである。
 また正木博士の研究室の窓辺から見るようにと博士に促されて見た解放治療のフィールドワークと最後に出現した呉一郎による殺戮の現場にしても、博士の存在そのものが語り手の空想であり妄想であるとするならば、この集団殺戮事件そのものも実際にはなかったことになる。むしろ、事件はあったほうが物事の展開としては自然であるような気がする、というリアリティの評価の問題になるに過ぎない。

 以上身も蓋もないことを書いてしまったが、「現実」と云うものが一つしかなく、それを基準として考えようとするから思考は複雑化するのであって、ものごとが落ち着く通りに論理的に考えるのが自然なのである。
 前に書いたことの繰り返しになるが、現象界としての現実とは、リアリティと個的実感の狭間にある。この両者が一致したとき、自然である!と我々は感じることができる。両者の間の距離関係が疎外され拡大されるにつれて、輻輳化された妄想や空想の世界が出現する。かかる妄想や空想は、単なる思惟の禍なのであるが、それを感じる個的な存在にとっては、これだけが唯一の世界が齎した意味である様に思われる。これ以外のものは全て虚構じみた嘘か空疎な造り物のように思われて、実感信仰のなかに立て籠もって一切に対して攻撃的となる。世界から親和性の要素が失われる。
 ここまでは誰しもが経験する、この世での体験である。
 精神異常は、かかる個人を支えている個的実感が何らかの事情によって空疎化することによって始まる、と思われる。自他の境界が溶解し、他者は自己の外側にいる人格ではなく、自分のなかで背中合わせにある他性に過ぎない。他性はまるで二重スパイのように心の秘密を何でも外部に向けて語るようになる。自己が社会や世間と云う環境世界のなかにあって、繭のように守られていたプライバシーが失われる。

 松本俊夫の映像の世界は、かって黒沢が『羅城門』で描いてみせたように、リアリティと実際に起きた個的現実(実感)との間を往復してみせることによって、現実的世界の偶然性、恣意性を描き出す。
 現実は一つではないのである。
 かかる現実唯一信仰の立場から、事象の不確定性を議論しても仕方がないのである。『羅城門』に描かれた現実とは、芥川流に人間とはいい加減なもので利己的な動機に凝り固まった虫けらのような存在に過ぎないと考えるのか、最近の現象学のように、現実とは欲望し、思惟すすかぎりにおいての存在にすぎないと、居直ってみせるかである。
 松本俊夫は、リアリティと実感信仰との間の絡繰りを、空疎とも云える人間の思惟作用に求めた。すべては空の空と云うべきか。身も蓋もないと、禅僧のように達観してみせるべきか。近代人としての映像作家松本は、かかるリアリティと実感信仰が生む狭間の間に立ち尽くし、何れにも加担せずに客観的立場を貫こうとしたかに見える。その結果、『ドグラ・マグラ』の世界は、夢野久作的世界観に引き摺られたとは言え、曖昧模糊とし、両義的なラストシーンを迎えることになった。自らを利害的に加担しえないものには、先にあるものが見えないのである。
 ちょうど六十年代の終わりに、ピーター演じるゲイボーイが『薔薇の葬列』を見送った後に、両目両眼を潰して現代日本の孤立無援のオイディプスたらんとするのであるが、ギリシア神話オイディプスには心眼でしか見えないものを観る妨げとなるがゆえに用いた、両眼を潰して失明に至ると云う血染めの儀式が、松本俊夫の場合には最後まで明晰さを欠いたまま、エンドマークもなくモノクロ映画の幕が降りたように。