アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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フランス映画『汚れた血』 アリアドネ・アーカイブスより

フランス映画『汚れた血
2018-06-26 20:57:29
テーマ:映画と演劇

今夜は地元の福岡大学における公開講座
フランス語額圏よりの映画の紹介です。
2018・6・25 18:00~21:00 

 

  この記事の中から、一つの伝えたい言葉を抜き出しておきますね。

 愛は、個人の自覚のなかで
その都度ごとに「古典」を蘇えさせる。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 

 近未来の社会においてSTBOと云う名の奇妙な伝染性の病気が蔓延する。STBOとは、愛と云う精神的行為を欠いた人間同士の関係は、かなり高い確率の致死率で互いを死に至らしめる、というものである。けったいな病気があったものである。かかる黒糖無形な発想ゆえにこの映画は「SF」と分類されている。表題「汚れた血」とは、精神的でピュアな愛の価値などを見失った現代人への反語的批評のつもりなのだろう。
 言い忘れたが、舞台は石畳の古き佳きパリである。昨今のパリはあの事件六十年代の時代以来舗道はアスファルトで覆われてしまったが、この映画ではまだでこぼこ道が残されている。セーヌ河畔のブキニストがあるユーモラスな箱の風景も小道具として有効に撮影に利用されていて、懐かしい映像風景である。

 物語はいたって簡単、STBOに対する免疫薬がさる製薬会社によって開発され、その血清を盗み出して一儲けしようと企む、「小悪人」たちの物語である。「小悪人たち」はひと昔前の「冒険者たち」のようでもある。
 小悪人たちの企みは、ライバルのアメリカ資金源の「悪党たち」の目論見を超えて半ば成功したかに見えるのだが、主人公の青年は、悪党たちが放った消音機付きの銃弾を一発浴びて、徐々に死に至る。最後は愛の夢を信じながら、将にひと昔前のメロドラマ!だが笑ってはいけない。これは純正なるフランス映画のパロディであり、愛の至高的価値が、映画のなかで有名女優ジュリエット・ビノシュによって延々と語られるのであるから。このモノローグを愛の秘め事のように囁き漏れ聴きながら、かってフランス人にとっての愛とは、孤独と隣り合わせの経験であったことを、或いは広範なものとしてフランスの伝統としてあったことなどを思い出した。こんなことをいまだに考えている古典的な人類が私より若い世代にもいたわけだ。これは私を少し感動させる!

 にもかかわらず、映画の出来は大したことはない。一種のモザイク映画と云うべきで、冒険活劇の娯楽映画の枠組みの中に、青春ドラマ、中年のメロドラマ、フランス文化、ととりわけヌーヴェルバーグへのオマージュが散りばめられ、深く、象嵌されている。
 俳優をみればすぐにわかる。ミッシェル・ピコり、先のジュリエット・ビノシュ、この二人が愛人関係にあるのだが、ピコりはヌーベルバークによって描かれた戦後のフランス文化を代表している。だから彼に対する女の愛は、第一にヌーヴェル・バーグの世代への賛歌なのである。第二に、親子ほどの歳の違う男女が愛すると云う図式は、古典的フランス映画の常套手段であり、それを踏襲しているに過ぎない。彼らが自分たちの愛を語る台詞もまた大変に気障なものである、曰く「あの人の前にいると、私のなかの最も美しいものが輝く!」のだと。分かるような気がする。愛とは、他者には理解できない、そう云うものであったからだ。
 また彼女については、彼女とは十ほどもの違う主人公の青年(十歳近く年下)によって、こうも語られる。パラシュートで落下した折に、――パラシュートの親綱が機体に引っ掛かり上手く降下できないのを助けるために綱を伝って女の元に行き、運命を共にする覚悟をした青年は、女が失神しのているのをよいことに唇を重ねて見るのだが、後にこの経験を回想してこういうことを言う。彼女との接吻は「古きフランス映画の女優の味がする」と。これも大変に気障である。二十歳の青年がこういうことを言うか。年齢に似ずませたことを言う!これもフランス文化の特徴であり、ヌーヴェルバーグが得意としたものではなかったか。
 この映画は様々な未消化の素材要素をモザイク的に組み合わせ、複数の素材要素が有機的な意味付けを欠いて、バラバラに、荒々しく、消化不良のままモンタージュされているのだが、どの映画に似ているかと云えばジャン・リュック・ゴダールの『気違いピエロ』に似ている。あるいはこの映画自体がゴダールへのオマージュなのかもしれない。彼が物語の途中過程で吐く印象的な捨て台詞、「人生とは、乱雑に書き散らされた下書きのようなものである」と。この予言の通り、主人公はラストシーン近くであっけなく死ぬ。ゴダールの主人公たちが人生の無意味さに意味づけを与えることをあくまで拒否して、虫けらのようにのたうち回って死ぬのと、パロディの関係となっている。だから彼らが流す涙は乾いて少しも悲しくはないのだ。
 また別の場面では、「愛とは疾走である!」とも云う。映画の印象的なラストシーンでは、青年にとっては夢に終わった国外脱出の余韻が、と言うより夢の残骸が、女を滑走路に滑り出させ、彼女は両手を翼のようにして全力で疾走する。愛とは疾走なのである。青年への愛を捨てきらない昔の女友達もまた、後半部ではバイクを駆使して彼の秘密の助手となり手助けをするのだが、彼が死んだのを見届けると彼女もまたバイクのエンジンを始動させ爆音とともに涙も感傷もなく走り去る。彼女にとっても愛とは疾走なのである。そして何よりもかによりも、駆け抜けるように生きた青年の短い生涯もまた、疾走した人生とは言えるのである。
 モザイク的映画としての要素はこのほかにも、近未来を描くモノクロ的背景に原色が交錯するサイケデリック風の映像美?のモダーンさにも関わらず、音楽にはベンジャミン・ブリテンやプロコイエフほかのクラシックや、シャルル・アズナブールなどの五六十年代風のシャンソンが用いられている。現代的な色彩的枠組みにもかかわらず、物語も、また作中語られる愛の形而上学や男女の情感あふれるモノローグもまた、19世紀古き佳きフランスの時代に語られたとしても少しもおかしくない内容である。なぜなら、当たり前のことだが、形式としての愛は、古くも新しくもないからである。愛は、個人の自覚のなかでその都度ごとに「古典」を蘇えさせる。
 そうして、彼らによって語られた愛こそ、「汚れた血」を象徴するSTBOの向こう側にある、あるものである。私はこれを制作した映画監督レオス・カラックスほどに図々しくはないが、言ってしまおう!勇気を奮って!
 ――彼ら「冒険者たち」が死を賭して探し求めたものこそは、「聖なる血」である、と。

 最後に主役のアレックスを演じた俳優、ドニ・ラヴァン。美男子と云うにはほど遠く、なぜもてるのか私には分からないが、――例えば一世を風靡した醜男俳優・ジャン・ポール・ベルモンドを彷彿とさせるキャスティングは、この映画の建前として、当然思い浮かぶ連想だろう。
 ほかにも、既に書いたが、ミシェル・ピコりは60年代フランス映画を代表する象徴的存在であったし、ジュヌヴィエ―ヴ・ビノシュもまたポスト・ヌーベルバーグとも云える映画群の一端を担った女優さんたちであったことからすれば、監督の、過ぎし時代への共感と、追憶は明らかだろう。
 私にも彼の気持ち、よく分かります。

 素晴らしいフランス映画とは言い難いけれども、――例によってこの後の感想会擬きでは「60点!」と酷評した――この映画を観ながら久しぶりに色んなことをこの夜は考えました。辛うじて残されたフランス文化のエッセンス!とるに足りない愛の追憶と思い出の破片に、多少のため息と久方ぶりの笑みを浮かべながら、羨望と、懐古と、心痛さの感情と、懐かしき感情がこの夜、夜空を駆け巡る衛星のように周回し、浮遊し、回遊し、遂には自らの追憶へと回帰する、この夜の虚空に浮かされて、幻想が二重写しになって漂うがままに、自分自身がひとりあるのをひとり愉しんだ。・・・・・
 孤独に堪え得ないと云うのは言葉の矛盾なのである。
 
 愉しい一夜の時間を有難う!