アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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出来損ないのフランス映画『汚れた血』――記憶の尾鰭を引き摺る私の感傷! アリアドネ・アーカイブスより

出来損ないのフランス映画『汚れた血』――記憶の尾鰭を引き摺る私の感傷!
2018-06-29 11:14:08
テーマ:映画と演劇


 ごた混ぜで、荒々しく、粗削りで、不用意なほど感傷的な映画、到底傑作の部類には入れないのに、――批判的な評価を下さざるを得なかったにも関わらず、印象深さが消えない不思議な映画です。
 暴力や殺し合いも出てくるのですが、それが非リアリスティック!恋人の頬に付着した血糊が乾くことなく、既製品じみたペンキの明るい朱色のまま?――たとえばの一例!
 恋人の頬を伝う涙も、乾いていて、他人ごとのよう!
 でも、ある種の感情を伝えるのに、湿度と湿気の濃い涙では伝わらないこともあるのですね。乾いた涙でしか伝わらない感情、――感傷と云うべきでしょうか、日本人が口にする「感傷」とはずいぶん異なりますが――それは、感傷という感情表出の形式が十分に記憶のなかで濾過されて、反芻されて、形式となるまでの習熟、習熟を重ねることによって得られた定型性!という民族的な伝統と過程が必要なのです。
 頬を伝って乾きかかった涙の筋!美しさにため息がでそうですが、それ以上に私が感じたのは、古い昔の映画ほどにも、かかる名品としての美しさを、他ならぬ私たちが忘れていたという、観る側の事情の方でした。つまり生の感情を「名品」として見る姿勢、現実世界のなかに「古典」を見出そうと云う私たちの側の姿勢のことです
した!
 造り物じみた涙と感傷!にもかかわらず、かかる定型的な方法、――追憶で濾過された人為的な方法でしか伝えられない感情と云うものがこの世にはある。そんあんなことをフランスと云う国の文化的成熟に重ねて考えながら、それでは私たちが至高のものと考えている生の感情とか、意思や感情の直接性とは何だろうか。能や歌舞伎等の東西に渡る演劇的空間に固有の、感情の定型的表現とは何だろうか。形式とリアリティとの関係や如何に!などと云う雑念や形而上の思考感情にその夜の私は夜のしじまに流されていくのでした。
 それを一番典型的に示したのは、ポスト・ヌーヴェルバーグの女優――こうした名称が本国フランスにもあるのかどうか知りませんが――ジュヌヴィエ―ヴ・ビノシュによる、かなり長い愛の述懐、愛のモノローグの場面だったと思います。
 真正の愛には言葉は不要だと言われます。他方、フランス文化が培った伝統は、言葉の明示的表現のなかに愛は甦る!と云うものでした。この場合の条件は、普通人ではなく、愛によって他ならぬ「私」となった固有な人格、固有な個人です。固有な愛とは言葉の明示性のなかに初めて存在を告知するのです。つまり現存在でもなく歴史的存在でもなく、超時間的な人格的存在なのです。
 多方において、愛を語るとき、ある種の人が言うように、愛は世界を繋ぐ!のでしょうか。論理や時間の規則を超えた絶対的存在、ある種の超越性と考えられるのでしょうか。それともビノシュが映画のなかで語ったように、愛とは一個の人格のなかに宿る、孤独と背中合わせにある人間の実存を理解することなのでしょうか。要するに通常我々が理解する永遠とはどういうものなのかと云う感慨に誘うのです。そんなことをこの夜、人通りも絶えた空漠たる夜空の下に広がるキャンパスをひとり横切りながら、この映画を観終えた後の感想などを久しぶりに思い出しておりました・・・・・。

 この映画のなかで、一番印象に残った言葉を残しておきます。

”あなたの唇は、古い映画女優の味がしました”

 気障すぎて、到底日本人が口にできる言葉ではありません。しかし性差を違えても、ーー自分が女であると仮定してーーこの言葉、言われた方はどんな受け止め方を、つまり心の高まりを感じるだろうか、などとあらぬ想像するだけでも愉しいごとですね。