アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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目に見えないものの価値と「見せる政治」――安倍政治の特色 アリアドネ・アーカイブスより

目に見えないものの価値と「見せる政治」――安倍政治の特色
2018-07-01 06:59:46
テーマ:政治と経済


戦後七十年をこえる我が国の民主主義政体の歴史は、日本国平和憲法と云う目に見えないものをめぐる歴史でもあったようです。理想とか理念とか目に見えないものに対して、どういうう態度で向き合うのかという歴史であったような気がします。
 他方、「見せる政治」=「成果を出す政治」を目指した安倍政権の画期的?な意義は、眼に見えないものをめぐる七十年の試行錯誤を一掃する意義?を持っていたようです。言葉は必要ではなく結果が全てである、つまり「論より実行」と云うわけですね。一国の首相が語る言説が次第にスポーツの世界の監督や企業家と呼ばれる人たちの家訓に似てまいりました。
 一方、「見せる政治」=「成果を出す政治」を目指す過程で、理念とか理想とか目に見えないものを払拭すると云う過程から、皮肉なことに「見せる政治」はもう一つの見えないもの、――「忖度」と云う概念を呼び込んでしまいました。忖度とは、言葉や論理を介することなく「分かる」心理的な構図ですが、見えないものを追放する過程は実を言うともう一つの見えないものを呼び込んでしまう皮肉な過程となりました。
 つまり「見せる政治」とは、理想とか理念と云う見えないものから、「忖度」と云うもう一つの見えない世界への旅だったのです。同じく見えないと云う点では同一であリながら、言葉の信を問うと云う姿勢があるかないのかと云う点で対照的な立場に日本国民は身を置くことになったのです。またこの国民にとっては、有史から先の敗戦に至る歴史において長らく「忖度」の歴史を歩んできたわけですから、本家がえりをしただけで「忖度」の習熟度と云う点に於いては、世界に範を示すと云う気分を演じることすら可能であったのです。太平洋の向こう側のトランプ政権が誕生したときに、国力の違いはありながら、心理的には我が国の総理が「先輩格」を無意識のうちに演じてしまうと云う構図が既視感を伴った映像として流れたのも無理からぬ理由があったわけです。

 ドイツの哲学者ハイデガーは人間のことを「現存在」などと難しく言っておりますが、分かり易く言うと「私人」のことです。私人とは、現に今ここにいる他ならぬ私、利害関係のネットワークを蜘蛛の巣のように張り巡らせ、己を利害を最優先して生きる、人間と云う概念とは由来を異にする生物種の分類に近い概念規定です。ここから利己主義を指弾する意見もありますが、資本主義とは元来そういうシステムなのですから、そういう理由で批判するのはおかしいのです。むしろあからさまには私的欲望の論理を貫徹できずに、裏口から「忖度」という客を呼び込んでしまう、つまり資本の論理を裏切ってしまうと云うことに特徴があるのです。

 ですから「理念(理想)」と「忖度」と云う目に見えない者同士は、対資本主義と云う意味では反対派なのであり、何れも「革新」や「改革」を主張することができるのです。主張だけを見ているならば、どちらがどっちであるのか、分からないほどです。悪名高いナチですら国家社会主義ドイツ労働者党と云うのです。
 この党が、先の民主主義的な理念や理想と云う目に見えないものの価値に対して、大いなる侮蔑と軽蔑を示し「見せる政治」として、「見せる」が物理的な行使力として言論の統制や焚書と云う手段を通して、言葉と文化と伝統に対する大いなる挑戦者として現れて来たことは周知の出来事です。
 言葉には行動を、文化には野蛮さとを、伝統に対しては野蛮、対置させオリンピックや典礼行事、軍事パレードをイメージさせたことは周知の事柄です。

 戦後の保守の政治家たちの群像のなかにあって、安倍晋三の違いは何でしょうか。自民とは自らが公言するとおり平和憲法について居心地の悪さを表明してまいりましたが、ただ安倍以前の伝統的な政治家の意思表示は、現実は平和憲法のように綺麗ごとでは済まない、という世間の知恵のレベルにすぎないものでした。つまり彼らは理想と現実の二元論的立場に立って、平和憲法の理念的価値だけは認めていたのです。当時の日本は冷戦下の平和共存政策のなかにあって、資源を輸入し製品を輸出すると云う貿易立国を国是とする立場上、平和主義者であることが絶対的な条件だったのです。左翼の人たちのように人類の理想と云う「仮構化された立場」から主張したのではなく、当時は平和主義的であることが現実的だったのです。
 安倍晋三の登場は、戦後の保守主義の歴史において、かかる二元論的構造の枠組みに対して疑念をさしはさみ、あるいはもう一歩進めて、民主主義運営の基礎となる言葉や論理に対してあからさまな侮蔑と軽蔑感を示しえた最初に人になったと云う点です。民主主義一般に限らず、あらゆる目に見えないものの価値に対して疑念をさしはさみ、「見せる政治」を対抗価値として持ち出して来たことです。ここに彼の新しさがありました。

 私は政治的には奥手で、日本国憲法を読んだのも恥ずかしながら六十代もかなり進んでから、四五年前のことでした。
 一読して、その文体にうたれました。
 安倍晋三とは逆に、眼に見えないものの価値について、人類が数千年の歴史において如何に考えて来たかが走馬灯のように読み取れる構造になっていたのです。自分が読む前に、すでに数千年に及ぶ歴史があったという、時間の重みに応える自分がありました。書いてある内容はそれに比べれば二次的なものでした。

 日本国憲法は、ハイデガーの「私人」と云う概念では読めない構造になっていました。日本国憲法を読むためには、人間に先立つ言葉の先在性(先験性)と云う考え方を理解する必要があります。人間は地域に寄っては「私人」と云う生物種に近い概念としてこの世に生まれて来るのかもしれませんが、言葉を介することによって、紡がれた言葉の揺籃のなかで、「人間」と云う概念が、「個人」と云う概念が生まれた、と云うのです。少なくとも私には日本国憲法がこのように読めたのです。
 つまり、「個人」と云う概念は生得のものではなかったのです。フランス革命の自由、平等、友愛の理念も天賦のものなどではなく、後天的に、言葉の習得をとおして実現されていく「過程」に過ぎなかったのです。
 「個人」と云う概念と「公人」と云う概念は対立する対概念ではなく、公人とは個人の別名のことでした。言葉や論理と云う目に見えない「広場」に参入する「資格」が「個人」であり、広場から出て行って行為する個人の見え方が「公人」だったのです。
 日本国憲法を文芸の書として読むと、こうしたことが解ってくるのです。

 ある国では一国の総理が自らや自らの配偶者の言動を通じて、その実行主体は私人なのか公人なのか、私的行為なのか公的行為なのかを廻って論議がありました。
 某国の首相が一連の言動を通じて一貫して主張していることは、「私人」の立場から言うと、自分は関与していない、私人としては無罪である、と主張しているにすぎません。
 彼が語れなかったのは、公人としてはどうだったのか、と云う点です。一国の首相でありながら、問われている質疑については「私人」として答える、という異常さがありました。異常であることを異常であると感じない彼の感受性の質がありました。
 「私人」の概念しか持たない人間に憲法が読めないのは当然のことですね。こういう人を国民は知らず、指導者に選んでいたのです。民主主義にとって不適性であると云うだけでなく、言葉の信義と云う伝統的な価値に於いても、最も不適格者をリーダーに据えている、と云うことなのです。
 日本国国民は安物を掴まされてしまったのです。
 
 現在の日本が置かれている国際環境下における状況は、――日大アメフト部の問題ではありませんが――こういう人に一億の民の命運を託さざるを得ない状況にある、という冷徹な認識をこの場所で保ち続けることなのです。