アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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水辺の物語――『甘い生活』をめぐる雑感 アリアドネ・アーカイブスより

水辺の物語――『甘い生活』をめぐる雑感
2018-07-02 22:37:03
テーマ:映画と演劇

もうこの齢になれば、権威や権力に義務や義理も感じる謂れはない。
間違っていても良いから、思ったことをポンポンと、波間にたゆとう頼りない小型発動機船のように景気よく吐く、
こと芸術や学問を論じる場合は、何者にも臆することなく、遠慮することなく所信をの述べる、
これも流れ藻のように生きる、さながらの生き方である。


 ある水辺と聖性の物語
 冒頭の場面が古代ローマの水道橋の廃墟、――古代末期の民族の大移動期以降、破壊されて水は枯れてはいますが、――から始まるのも、後で考えれば、幻想のなかに水辺の音を聴く、と云う風に読み解けますね。古代の聖性をいかに聴くか、はこの映画の表面的なテーマとはまた別の主題でもあったような気がします。

 このあと、ペリコプターからぶら下がったキリスト像を運搬すると云う、意外性を帯びたシーンを導くのですが、行先はバチカン市国です。
 このバチカン市国で待ち構えているシーンが、例のアニタエヴァーグの、鐘楼の内部をめぐる螺旋階段を昇り、サン・ピエトロ広場を俯瞰し歓喜のあまり帽子を風に飛ばされてしまう場面と、この後につづくローマ市内外の夜の彷徨と野生が持つ聖性の時間を経て、そして最終的にはトレヴィの泉の夜明け前の華麗なシーンへと繋がります。

 ここにきて、必ずしも表面に露出していたわけではないこの映画が水辺の物語であることが解ります。
 水辺の物語としての聖性が、キリスト教徒の関係で捉えられているのか、それとも古代ローマの幻としての噴水が齎している変わることのない水べの音として捉えられているかなのですが、私の見るところ前者に於いて意識的あり、フェリーニは後者に於いては必ずしも意識してはいないようです。(映像表現としては「幻想のローマ風景」は十分に描かれていると思います。)

 水辺との関連は、このほかにも、この映画を読み解くために極めて重要な意味を持つ海岸に打ち上げられた古代の残骸――巨大エイの死体の場面と、すぐそのあとに続く、昔行きずりに会話を交わしたことがあるだけの海辺のウェイトレスの少女との、強いて思い出そうとしなければならないほどの小さな、記憶の出来事のなかから探し出されなければならないのですが、その彼女の面影は思い出せそうでいて必ずしもそうはならない、もどかしいほどの悲哀に満ちたエンドの場面となるわけですが、この場面が哀切であるのは、記憶が思い出せないと云うことにあるのではなく、救済の言語が届かないと云う点にあります。その理由は彼が堕落した生活をしているというほかはないのですが、ここまで書くと、この映画との関係だけではなく、フェリーニと水辺との関係は何だったのだろう、と考えてしまいます。

 何度も今までにも申し上げてまいりましたが、この物語は水辺と聖水を描いた映画であったのです。
 ですから、『8・1/2』の場合もそうですが、フェリーニの場合水辺との邂逅は、半ば救済を意味していますので、半ば救いのないこの映画のラストシーンにも関わらず、男が最終的には救済されるこが既にフェリーニの脳裏のなかではあったのではないかと考えることは容易ですし、ウェイトレスの少女が水辺の女神めいた映像で再登場することの意味も、フェリーニなりの固有な暗喩ではないかと思います。ヨーロッパの劇造りの伝統である「喜劇」の定石の姿をここに確認できるのかも知れません。

 繰り返しますが、巨大なキリスト像を運ぶヘリコプターの爆音から始まるこの物語は、背景に古代ローマの水道橋の廃墟を点描しつつ現代によみがえり、様々な聖性に関わる象徴と隠喩を秘めて、完全なる現代の宗教映画として造られたことが解ります。宗教的な隠喩が第一にキリスト教徒の関係で、第二に古代ローマの映画との関係で、前者が意識的のレベルに於いて、後者が無意識的のレベルにとどまっていることは、既に述べました。
 これは日本人の感性からは理解しがたいことであるのかもしれませんが、そう読み解かないとこの映画を愉しんで観ることはできません。

 また、この映画の実際の芸術的価値云々の問題とは離れるのですが、宗教的なメッセージに満ちた映画がどのようなリアリティを用意するか否かは別の問題です。この点は、『甘い生活』を絶賛する方々に一度聞いてみたい事柄です。宗教的な象徴と隠喩に依存し、全面的に拘らなければならない点に、この映画の長所も短所もあるのではないのか、と最近の私は感じているのですが。
 実際に映画を観おえて、この映画のなかでフェリーニの力技で力量を籠めて描かれたローマの上流階級の堕落した風俗風景にしても、インテリと思しき主人公の自己評価や自己嫌悪にしても、私にはどこか空々しく、リアリティを欠いているような気がいたします。一番分からないのは、主人公の設定がなぜインテリでなければならないのか、と云う点です。この映画のなかにまるで異質な風景とでもいうように、ローマ社会における知的な上流階級の一場面が出てくるのですが、この場面だけはフェリーニはカメラの露出を解放させて、夢の場面か白日夢のように浮遊した日現実感において描かれています。つまりこの場面の非現実性を強調することでこの映画が基本的に描かれてきた現代ローマの風俗を極端なまでに対比し強調することによって現代社会の堕落と頽廃の様を際立たせると云う意図はあったようなのですが、私は彼の意図的な対比する試み自体にリアリティを感じることができないのです。
 
 別の意味でも古代ローマ風に堕落した風俗的世界を異化するものとして、既に触れているスタイナー家(と云うのですが)の物語があります。映像を通じてスタイナー家とは何であるかを想像すると、芸術や文芸に造詣が深く、自らも教会に関係していてパイプオルガンも弾くようです。詳しくは語られませんが、主人公の学生時代の気のおける友達の一人であったのかもしれず、そうではなかったのかもしれず、彼を取り巻いてきた環境とは異質の存在として描かれています。いずれにせよ、尊敬と敬愛の念を友人として持ちづづけたにもかかわらず二人のその後の生き方の違いから、何となく常態的に付き合う友人関係にはなっていなかった、と云うことが解ります。その彼が、いまや自分の生き方を変更しようとする主人公の前に、輝けるばかりの理想形として登場してくるわけですね。

 広い書棚を持った広いアパルトマンと、美しい奥さんと可愛い二人の子供たち。彼らの生活様式は、公的な領域では教会組織に繋がり、私的な繋がりの関係では芸術家たちを気楽に自分のサロンに呼べるほどの経済力が備わっている。貴族ではないにしても、銀行や金融菅家に古くから基盤を持つ資産家の一家ではないかと思われる。スタイナーと云う名前からしてそうです、スタイナーとはユダヤ系を意味しています。

 その万事満たされているはずの彼が、突然口実を設けて妻に偽りの外出をさせ、妻の留守中に可愛がっている二人の子供たちを道ずれにして自殺する!と云う事件が起きます。実に唐突です!
 本来なら新聞記者である彼にとっては、特ダネを書ける絶好のチャンスでもある。しかしこの段階では、自分の生き方にすっかり自信を失っている彼には、ゴシップや新聞記事のことはもはやどうでもよくなっている。むしろ彼をこの世で唯一救いあげてくれるかと思われていた旧友の意外な死で、彼の実存と夢は根底から破壊される事態に陥ってしまうのである。

 このショッキングで残酷な自殺心中事件の後に続くのが、映像監督フェリーニが得意とする、古代ローマを彷彿とさせる、頽廃的美学を再現させたかのような、海辺の別荘で繰り広げた酒池肉林をめぐる乱痴気パーティーである。観客は主人公が根元から腐り切った人間になっていることを改めて理解する。もはや如何なる救済も不可能であると。女を漁り、ゴシップを追い、妻を裏切り続ける男、神から見放され、あらゆる聖性からは切り離されて、生殺しのような虫けらじみた生態を続けていくほかにはない、と。勧善懲悪風に云えばこうなるのだろう。

 そうして実存の底部を描いたこのシーンの後に、海辺の注ぎ込む小川の向こう側から、何かを告げようと知らせてくる少女の映像との、思いがけない場面を描いて、もどかしいほどの罪深さと救いがたさを描いて、この三時間に迫る長大なフェリーニの大作映画は終わっている。

 結局、スタイナーとは誰だったのだろうか。
 教養と経済力があって、美しいと二人の可愛い子どもを持つ。お金持ちで教養があると云うだけではなくて、宗教的な世界やローマの知的階級に於いても重要な位置を占めている。――つまり絵にかいたような理想的な風景なのである。むしろ絵に描いた以上の理想化が施された結果――非現実的である、と言うほかないほどのものになっている。
 問題なのは、主人公がスタイナーに人類の理想形だけを見て、彼の理想形の背面に秘められた虚無を見抜けないことにあるのだろう。彼の人生観そのものが浅いのだから致し方がないと云えば、身も蓋もないことではあるが。要するにフェリーニの人生観が、映像作家としての彼の天才性に逆比例して、浅いのである。

 つまり正ことは結構である。しかし正しすぎることにはどこか嘘がある。スタイナーが演じた正しさの道徳劇の背後には、その正しさの強度に見合った虚無が逆比例関係のものが病理として巣食っていた。正しすぎることはそれが非現実的であると云う理由によって、狂気となる!混じりけのない宗教性や道徳性もまた、狂気の兄妹なのである。

 フェリーニに見えなかったものは、正しすぎる世界は狂気の世界と背中合わせであると云う人生観上の冷徹な認識だったと思う。

 映画の出来栄えを離れた論議になってしまったが、主人公の内面的な造形的彫琢の浅さだけでなく、宗教的世界とローマ風世俗世界と云う二元的構図の世界を踏まえて生きる映画の構造自体が、現代から見ると何をアクチュアリティとして象徴しているのかが分かり難い。言い換えれば彼の言生き方には、今日から見るとリアリティを感じることができないのである。

 ついでに言っておくと、フェリーニの後期の実験的な大作『8・1/2』についても、映画の出来栄えとは別に、私の眼には壮大なコケ脅かしじみカーニヴァル劇に思われる。ここでも気になるのは彼の知識人についての考え方であって、描写と造形力の不徹底さは彼のインテリコンプレックスと関係があると云う気がしてならないのである。かれはインテリ性と云うものを理解できていたのか?

 フェリーニには、これとは別の系統の『道』や『ビリディアなの夜』と云う名作群がある。彼の芸術家としての本領はむしろこちらにあったのではないのか、と考えている。